今週のお題「うるう年――2008年の私、2016年の私」

論語』によれば、過去の時代と現代との比較ができれば、未来の予測もできると孔子は言っている。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20120223/1329994001
そこで、2008年の日記を読み返しながら、今とどう変わったかを確かめていこうと思う。

2008年の私

四年前、2008年の日記を読み返し、気になった事項を拾ってみる。
1月はボーガスニュースを愛読していたらしい。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080105/1199529459
最近はあまり読んでいない。以前は、パロディのはずのボーガスニュースの方が実際の新聞よりもよほどまともなこともあることに気づいて夢中になっていたが、最近は大手全国紙のボーガス化があまりにも進んでしまい、比較する意味すら感じなくなってしまった。
また、灰皿に穴が開いたとこぼしている。この年に買いかえて、それを現在も使っている。
2月は、ちょうど四年前だから、少していねいに見ていく。
この頃、晩ご飯のあり方をめぐって妻との対立が激化していたようで、それ関する愚痴が多い。
実家の母のおともで墓参りに出かけている。この頃は祖父の命日に合わせていたが、母も年をとって二月に出歩くのは寒いと言いだしたので、その後、春の彼岸の前後に行くようになった。
古書店で斎藤純一『自由(思考のフロンティア)』をもしかすると2冊目かな?と迷いながらも買って、自宅に帰って「ちょっとドキドキしながら本棚を確かめたら、よかった、未購入だった」と安心しているのが今から思えば微笑ましい。この年の暮に引っ越しした際、書架を整理したところ、もう一冊出てきた。今は見せしめのために本棚に二冊並べてある。
出張先の大阪で、H・スペンサー『第一原理』の訳本を格安で手に入れて喜んでいるが、今日に至ってなお未読。
よほど疲れていたのか、トマトと鮭のタルタルソースホイル焼き、なんていう珍料理を創作していた。
晩ご飯について妻に理不尽な苦情を言われて、「もし私が妻の料理番ではなかったらば、ディオゲネスでありたかったのだが」という名言を残していた。その後、晩ご飯はなんでもいいと言っておいて、作った後で文句を言うのはやめてほしいと申し入れたら摩擦は減った。
フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)』を再読しかけ、それをちゃんと読み切らないうちから、よせばいいのに、パトチカ『歴史哲学についての異端的論考』をわかりもしないのに読み始めていた。
2月に関しては以上の通り。
3月もパトチカを読んでいるが、理解しているようには思えない。
4月には、パトチカを読んで気になったのか「責任」という語の用例をたどったりしている。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080417/1208418601
5月、この頃から今につながる羊ブームが始まっていたようで、妻に動物園に連れて行ってもらって羊をなでて喜んでいる。今では羊のぬいぐるみを買ってアイコンにしている。
6月には「羊頭狗肉」の語源をたずねて仏典に手を出している。仏教への興味は最近少し薄れてきたが、もう一度読み返すかもしれない。
7月は、この季節になると古傷がうずくのか、下手な怪談話をしている。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080720/1216526084
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080728/1217270754
この頃は年に数回は関西に出張していたようだ。今ではよほどのことがないと出かけない。
8月も季節がらか戦争の話題をとりあげているが、妻との晩ご飯問題も継続していたようだ。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080814/1218714462
9月、ハンバーグ疑惑が円満解決。某所で口頭発表した「共同幻想」についてのレポートを転載している。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080926/1222401324
10月、夫婦そろって風邪でダウン。何人もの方からお見舞いをいただいた。
11月、読書はレーヴィットからカントへ。そして、この月末から、この年の瀬にかけて続くデリダ懸賞金騒動が始まる。
12月、第一回ツネオ杯ゼロ道場アカデミーにのめり込む。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20081202/1228219437
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20081205/1228437745
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20081208/1228792552
挙句の果て、賞金を手にすることもできずに、年末の引っ越しになだれこんだのであった。
この年に読んだ本でいちばん面白かったのは『暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る (NHKブックス)』。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20081225/1230192170

2016年の私

2010年には高校の頃からの親友を亡くし、2011年には東北大震災があった。
亡くなった親友は早熟な文学少女で、私が哲学科に進学したのも卒業後も関心を継続していたのも、彼女がいたからだった。これですっかり関心が途切れるということはないだろうが、もともと哲学よりは文化史の方が性に合っていたこともあり、これからはフッサールだのデリダだのといったあまりに難しすぎる本は読まなくなるだろう。未読・積ん読の本は読むにこしたことはないが、やはり未読のままであることが多いので、読み切れないだろう本や読んでもわからないだろう本は見栄をはって買わないようにしよう。
東北大震災の際には、マス・メディアに対する不信はもとより、ネットでデマの発生をリアルタイムで見聞することになり、戦慄を覚えた。大小を問わず、メディアへの懐疑は薄れることはないだろう。
両親は年老いた。介護に明け暮れる日は近い。仕事や生活の仕方も変えなければならなくなるだろう。
四年前より、自分の健康に注意するようになった。病気になると長引き、仕事や生活に大きな支障が出るからだ。
妻との摩擦は最近かなり減った。ハンバーグひとつで険悪なムードになるということはもうないだろう。妻あっての私である。今後も、些細なケンカはしつつも、二人で暮らしていくことになるだろう。
さて、2016年の私は何をしているだろうか。
おそらく、体重が減っている。現在90k近くあるが80k前後に減っているだろう。
住まいと職場は変わっていないだろう。斜陽産業の衰退の最先端にしがみついて妻と二人でなんとかしのいでいると期待したい。
問題は何を読んでいるかである。もちろん新刊書についてはわからない。その頃に出るだろう話題の本は少しは読むかもしれないが、それはその時になってみないとわからないので、積ん読の山から何を引っぱり出して読み返しているか、ということを想像する。
いろいろ考えたのだが、結局は今読みたい本しか頭に浮かばない。精緻な議論を追いかける根気はなくなっているが、今さら金太郎あめのような入門書に手を出す気もしないので、随筆や記録文学か、昔の大家の書いた文明論のたぐいを読んでいるような気がする。
親の介護に割く時間が増え、老眼も進んで、読書時間も読むスピードも激減するだろうから、どれだけ読めるかちょっとわからないが、積ん読の山が少しは減っていることを期待する。