Web評論誌『コーラ』16号

Web評論誌『コーラ』16号が刊行されました。
私も心霊与太話の続きを載せていただきましたのでご覧ください。
私の駄文は、「コーラ」の同じ号に掲載の岡田さんのすぐれた論考への婉曲な応答でもあるので、合わせてご覧ください。
伴奏にこれつとめたつもりだけれども、第二ヴァイオリンを上手く弾けたかどうだか自信はありませんが。

メルロ=ポンティヘーゲルにおける実存主義

駄文を脱稿後、私が心霊学の名を借りておぼつかない言葉で書きつけたことを、メルロ=ポンティが「ヘーゲルにおける実存主義」で見事に言い表しているのを読んで感嘆することしきりです。
私が遠まわりしてようやくたどり着いた解釈は、『意味と無意味』の訳本、p95-p96により適切な表現で描かれていました。

もちろん、われわれが生命について述べることはすべて、生命について話しているわれわれ自身が意識的なものである以上、実際には生命の意識に関わっていることになる。しかし意識は、意識以前の生命がそうであるところのものをおのれ自身の限界として、またおのれの起源として捉え直す。そのような生命は、それの働く所ではどこにでも散らばっている力のようなものであり、みずからをそのようなものとして捉えることのない「死と生成」であろう。生命の意識が存在するためには、この散在との訣別がなければならないし、生が全体化され統覚されなければならないが、これは原理的に生命自体には不可能なことである。そこで、そこから存在が見えるようになるところの存在の不在、すなわち無がこの世界にやって来なければならない。こうして、生の意識は根本的に死の意識になる。

後になってから、自分より格段に優れた人の文章を引き合いに出して、ほんとうは自分もそういうことが書きたかったんだ、と言うのは、いかにも考えの浅いとんまなライターの言い訳みたいで格好が悪いのは自覚しています。
メルロ=ポンティは私よりはるかに深く考えており、とうてい足元にも及びません(当たり前ですが)。
それにこの文章は、イポリットのヘーゲル研究への応答なので、上に引いた部分もイポリットの解釈に沿ったものかも知れず、そして私はイポリットのヘーゲル論を学生時代に読んだはずなので、私のヘーゲル読み方は無意識のうちに初めからイポリットとメルロに方向づけられていた可能性もあります。
ところで、ヘーゲルの思想は、いろいろな人が異口同音に言っていますが、例えばメルロ=ポンティも言うように、「この一世紀以来哲学の中で形成された偉大なすべてのもの――例えばマルクス主義ニーチェ現象学やドイツの実存主義精神分析学――の源をなしている」(前掲書)。
一人の人の思想がこれほど広範な、かつ多様な影響を及ぼしたということは、その思想がさまざまな解釈を惹起するものだということを示しており、それは特に批判的継承者に顕著です。彼らのヘーゲル解釈はそれぞれ異なっており、それ故にこそ意味がある。
ヘーゲルを読むことの意義がますます高まりそうな時代の到来を予感している今日この頃です。
以下、Web評論誌『コーラ』16号の目次と概要。

■■■Web評論誌『コーラ』16号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

 ●現代思想を再考する3
グラフスの微笑―― 宿命と偶然(記号と埋葬2)
 
  岡田有生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-3.html
  前回の文章では、柄谷行人の論考「ライプニッツ症候群」を参照しながら、80年代以降の日本におけるいわゆる「現代思想」の重要な特徴を、ライプニッツ的な記号の論理の支配ということに見出そうとし、またその状況が同時代の世界的な思想の文脈においては構造主義的な思考の覇権という現象の一部として位置づけられるのではないか、と考えたのだった。
 「ライプニッツ的な記号の論理の支配」ということを詳しく言うと、歴史性を消去された透明な項としての個物が、単一の全体の表出と考えられる諸記号(モナド)の体系のなかで関係しあう予定調和的な空間として、社会や事象を捉えるということである。
  そこでは記号は、たとえばデリダが語ったような「意味」の支配を惑乱する形式的な力として働くことはなく、逆に全体を表出する項であるかのように機能することで、その機能の場(市場、思考空間、公共空間)の同一性についての信憑を、言い換えれば、「全体」なるものが確固として存在しているというイデオロギーを、密かに支え強化するものとして働く。(以下、Webに続く)

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  ●連載〈心霊現象の解釈学〉第3回●
   先端科学と超常現象

  広坂朋信  
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-3.html
  もともとは心霊現象をめぐる思想史上のエピソードを面白おかしく紹介しようということで始めたコラムなのだが、初回は東日本大震災にうろたえ、二回目は旧友の死の衝撃から立ち直れずに、それらの言い訳から書きはじめることになってしまった。しかし、さすがに三回目の今回は私の怠慢以外の言い訳の種も尽きたので、いきなり本題に入る。
  前回、ヘーゲルが人相学や骨相学に鉄槌をくだす場面を紹介した。
  ヘーゲルは『精神現象学』で「人相学者の横っ面を張り倒せ、骨相学者の頭蓋を叩き割れ」と、当時流行したトンデモ科学を威勢よく罵倒していた。そして、ある意味で彼の後継者ともいえるエンゲルスが磁気骨相学のトリックを暴き、交霊術に夢中になる自然科学者たちの無邪気さを冷笑するのも見た。エンゲルスの言葉を繰り返そう。(以下、Webに続く)

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  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第20章  水なき空のメタフィジィク・上句
       ──ラカン三体とパース十体(急ノ肆)
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-20.html
  ちくま学芸文庫版『初期歌謡論』のあとがきで、著者は、この本を書くことでいったい何をしたかったか、その二つののモチーフをみずから明かしています。
  ひとつは、「『記』『紀』の歌謡からはじまり『古今』の成立によって確かになった和歌形式の詩を、発生の起源から形式の成立まで、歌謡という統一的な概念でたどってみたかった」というもので、この課題については、第?章「和歌の発生」と第?章「歌謡の祖形」、そして第?章「和歌成立論」で論じられます。
 「歌謡の発生の起源から和歌形式の成立までを、初期の歌謡として連続させながら統一的に論ずるのが、わたしの願望だった。この方法は賀茂真淵折口信夫に徴候を見つけだすことができる。この本の方法は両家にたくさんの恩恵をうけて、系譜の見方をすればこの系統をひいている。」
  もうひとつのモチーフは、「わが国の詩の理論の書とみることができる初期の歌論書を、もっと理論化してみたかった」というもの。具体的には、「平安期の歌論書が説いている歌体の類別を解剖することと、歌枕とか枕詞のように景観と地名とのあいだや事物と冠辞とのあいだの固定した言葉の慣習(いわゆる「枕」)を解剖すること」の二点で、「かけねなしに難しい」これらの主題に著者は、第?章から第?章まで、「枕詞論・正続」および「歌体論・正続」の論述を通じて、「できるかぎりの力能」をもって肉薄します。
 (以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●
  水の地図/紅 茶

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-6.html
  小説や詩で登場する知らない地名があれば地図で探すのはとても楽しい作業だ。近頃は主人公たちの生活範囲や足跡を辿れるような仕掛けも増えてきた。しかし、それらが現実の災厄に関わってくるとなれば、地図を見る楽しみはいきなり現実的な痛い扱いに変わる。
  春3月の東北大震災に続き、豪雨を道づれに秋台風がなんども列島を襲った。各地の河川を氾濫させた豪雨は、濁流や土砂が人々や家屋を呑みこみ、地形を大きく崩した。自宅周辺の地形が気になり、ハザード・マップを広げてみると、2方を山に抱かれた山麓のマンションは、土石流災害の危険地区なので愕然とした。(以下、Webに続く)