浅田次郎『降霊会の夜』

六十代の男性がふとしたことで知り合った女性・梓に降霊会に誘われる。

「会いたい人はいませんか。生きていても、亡くなっていてもかまいません。ジョーンズ夫人が必ず会わせてくれます」。

降霊会の夜

降霊会の夜

降霊会といっても見世物的なイベントでも宗教の勧誘でもなく、知的で上品な雰囲気を漂わせるジョーンズ夫人とその娘メアリー、巫女でもある梓、それに主人公である「私」だけのささやかな集まりである。そこで呼び出された霊は「私」が封印していた記憶の証人たちであった。
東京オリンピックを四年後にひかえた東京で、小学校三年生だった「私」は転校してきた山野井清と親しくなるが、清は交通事故で死ぬ。十年後、大学生になった「私」は恋人だった百合子と気まずい別れをしていた。清と百合子に会いたいと願った「私」だが、霊媒の呼びかけに応えてあらわれたのは思いもかけない人物「招かれざる客」たちで、「私」の記憶とは異なる過去を語り出す。
団塊の世代の青春回顧の形式を借りてはいるが、この小説は世代を越えた大きなテーマに触れている。霊たちの口を借りて語り出される出来事は1960年頃と1970年頃の東京の世相を背景にしている。いずれも高度経済成長期のまっただ中にあった時期とはいえ、東京オリンピック以前の東京はまだ敗戦の傷跡が残り、焼け跡や闇市という言葉がまだリアリティをもって語られていた。一方、70年頃になると、その後のバブル時代を予感させる豊かさと浮遊感が漂う。こうした世相を生々しく描くことで、この作品は時代と人間とのかかわりという普遍的な主題を浮かび上がらせる。

つまるところ、社会の繁栄が個人の幸福を約束するという、大いなる錯誤の中で私たちは生きようとしたのだ。

作中で「私」はこう納得しようとするが、そうは問屋が卸さないところが、この作家の持ち味である。
読後、自分ははたしてその時その時を悔いなく生きているだろうかと思わず自問した。答えはすぐに出た。悔いのない人生なんて無い。後悔ばかりの前半生だったが、それでいいのだとも感じる。
二年前の今日までは確かに生きていた亡き友のことを、作中に描かれる「私」の友人たち、真澄と梶のエピソードに重ね合わせるようにして思い出した。なぜだか霊媒に頼んでまで彼女に会いたいとは思わなかったけれども。