幻の書

今週のお題「今、読みたい本」に答えてみようと思う。
しかし今、読みたい本は何かと問われて、何を基準にあげたらよいだろう。『源氏物語』とか『失われた時を求めて』とか、長過ぎて読み切れない本をあげる場合、また、名著の誉れ高いのに翻訳されていないので読んでいない本、高価過ぎて手に入らない本の場合もある。
その他、名前だけは知られていながら、執筆されなかったか、散逸してしまったかで読むことのできない古典もある。
史記』列伝の中で、墨子についての記述があまりに少なく、文章も中途半端なので、あるいは「墨家列伝」が他にあったのではないかという推理がある。もし出てきたら大発見だろう。
プラトン『クリティアス』の続きとか、エーコ薔薇の名前〈上〉』で有名になったアリストテレス詩学』第二部喜劇編とか、あったら読んでみたい本はいくつもある。先日、日記に書いた『カラマーゾフの妹』もこうした無理な願いをかなえてみたいという試みのひとつであったわけだ。他にもポーの特装本をめぐる事件を描いた『幻の特装本 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』や、『資本論』の隠されていた続編をめぐる『マルクスの末裔 (ミステリアス・プレス文庫)』、空海の失われた書が登場する『鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)』など、幻の書をめぐるミステリもある。似たような趣向はニーチェでも可能だろう。誰かやらないかな。
ともあれ、こうした幻の書には人の好奇心をそそるものがある。
実は、かくいう私も幻の書を買いに神保町に出かけたことがある。
その書名は、廣松渉存在と意味―事的世界観の定礎 (第2巻)(続)』「第三篇 制度的世界の存立機制」。ずいぶん前のことなのでどうして思い立ったのか記憶があいまいだが、とにかく至急この本を読まなくてはいけないと思い立ち、神保町に出かけた。
お茶ノ水駅からだらだら坂を下って最初に飛び込んだのは、××堂書店。あのあたりに××堂は二つあるがどちらのことだかは伏せておきたい。
哲学書売場に直行すると、顔見知りのベテラン書店員さんがいたので、これ幸いと尋ねた。「広松の『存在と意味 第二巻』続編、版型は同じで少し薄い本がありましたよね」。すると、『存在と意味』の続編は以前は置いていたのだけれど版切れ(出版元で品切れ)で注文しても入ってこないという。予想された答えだったので、さして気落ちもせず、版元岩波書店直営店に向かった。
ここならないとは言わせない、との意気込みで尋ねたのだが、そんな本は存在しないという。「でも、第二巻で著者が続編刊行を予告していたじゃありませんか」と粘ると、書店員さんの上司らしい年配の男性が奥から出てきたので、再度同じ話をして「だいいち僕は実物を見たことがある。版型・装丁は同じ体裁で背に「続」と銘打っていた」と強調した。すると、ちょっと待ってくれと言って奥に引っ込み、しばらくしてから出てきて「今、念のために編集部に問い合わせましたが、あいにくその本は著者が急死したため出版できなかったとのことです。ご覧になったのは別の本ではないでしょうか」と、どこか憐れむような慇懃な口調で諭されてしまった。
私は怒り心頭に発したが、そこはぐっとこらえて「なら結構です」といって店を出た。
著者が亡くなったことはとうに承知だ、ガンと闘病しながら最後まで手を入れていた遺稿をまとめて続編を出したんじゃないか、それをどうしてないなどというのだろう、在庫がないというならともかく出していないとは何事かという鬱憤をぶつけたのは、思想書を専門に扱う古書店○○堂の店主に対してである。
店主も首をかしげて「おかしいねえ。うちにもたまに入ってくるのに。著作権の問題か何かがあって絶版にしたのかなあ」と言う。
私は百万の味方を得た思いで「そうですよね。著者が亡くなったので巻末に山本耕一先生による補遺があった」と言うと、店主は「私は中身までは見ていないけれど、『存在と意味』に続編があったのは確かですよ」と請け合ってくれた。それで、入荷したら連絡してほしいと名刺を渡して古書店を出たのであった。
それからも、岩波めけしからん読者を愚弄するとは何事ぞ実物を探し出して目にものを見せてくれようといきり立ちながら神保町を探し回ること数時間。日も暮れかけて収穫はなく疲れ果てて足休めに立ち寄った喫茶店で煙草をふかしているときに、ハッと思い当たった。
あれ、山本耕一氏の補遺がある広松の本とは『唯物史観と国家論』じゃなかったっけ?
それじゃあ、もしかして××堂や○○堂の言っていた『存在と意味』の続編とは第二巻のことだったのか。あるいは、あると確信している私の剣幕に押されて、本の専門家までそのような気になったのか。
こうして誤解は解けたのだが、いまだに腑に落ちないのは、実在する『存在と意味―事的世界観の定礎 (第1巻)』の半分くらいの厚さで、灰色の函の背に「存在と意味 第二巻 続」と黒々と銘打った本を、K書店新宿本店の、当時三階にあった人文書売場で見たという鮮明な記憶である。
あの記憶は、私の白昼夢か幻覚だったのだろうか。そうだとすれば、まさしく幻の書である。もしあったら、それが読みたい。