藤田省三『精神史的考察』抜き書き

万年床の下から発見された藤田省三精神史的考察 (平凡社ライブラリー)』「或る喪失の経験」より。

入って来た金の額の増減だけに気を取られないで、失われたものについての自覚をしっかり持っていないと、金もうけだけは必要以上にしたけれどもその代り生き方についての価値や基準は無くなってしまって、何のための経済活動なのかその訳が分らなくなりかねない。それが新重商主義ニヒリズムなのである。そして生き方についての精神的骨格が無くなった社会状態は十分な意味ではもはや社会とは言い難い。一定の様式を持った生活の組織体ではないからである。それはむしろ社会の解体状態と言った方がいい姿なのである。そうして、そういう時にこそ得てして社会の外側から「生活に目標を」与えてやろうという素振りをもって「国家のため」という紛いの「価値」が横行し始める。そうなると社会の再生はひどく難しくなる。国家とは機械的な装置なのだから、「国家のために生活する」ということは即ち生活が機械的装置の末端機関と化すことを意味するだけである。生活組織と生活様式の独立性はここでは崩れ去る他ない。

この文章は景気のよかった1981年に書かれたものなので、現在の長期不況の閉塞感は想定されていないし、「生き方についての精神的骨格」とか「一定の様式を持った生活の組織体」というのが具体的に何を指しているのかもよくわからない(共同体主義的な傾向も感じる)し、「新重商主義」というのも、おそらく国民国家体制を前提にしているのだろうから現代の国際情勢にぴったり当てあまるわけではないが(それでも国内への影響については当たらずとも遠からずではないか)、社会が解体状態になるとおちいりやすい罠についての指摘は今でも通じるように思う。
その上で、

このような道への分岐点が、喪失の経験をおろそかにしてひたすら新重商主義の軌道を走り続けようとする態度の中に潜んでいるのだとすれば、私たちは如何にしても何が今日失われたものであるのかを根本的に確認しておかなければならないであろう。

というのは、今の私の気分にしっくりくる。