「四谷怪談」を読む(十七)婚礼の夜

なんとか年内に終わらせたいので、もう少し続ける。
伊右衛門はついに思いこがれたお花を妻に迎えた。仲人は秋山長右衛門が引き受けて、七月十八日、婚礼の宴が催された。
鶴屋南北の芝居『東海道四谷怪談』では、婚礼の夜にさっそくお岩の亡霊があらわれて伊右衛門を狂乱させ、お梅と伊藤喜兵衛を斬り殺させる。若い後妻を迎えて鼻の下を伸ばしている伊右衛門に、花嫁のお梅がいつのまにかお岩の顔になって、「こちの人、わが夫(つま)かいの」と言ってふり返るあの場面は、お岩による反撃の狼煙のようで、いつみてもワクワクする。だが、『四ッ谷雑談集』では「芝居」のような派手な怪異は起らない。
『雑談』の描く伊右衛門再婚はひそやかに行われた。お岩のもとへ伊右衛門が婿入りした時には町内のものが大勢集まって、新婦のお岩がうっとおしく感じるほどだったが、今回はわけありの再婚であるし、目立たぬようにとの伊東喜兵衛の意向もあって、客は仲人の秋山長右衛門夫妻と近藤六郎兵衛だけというささやかな宴であった。
その宴に、伊右衛門の同僚である今井仁右衛門、水谷庄右衛門、志津目久右衛門という三人の若者が押しかけてきた。彼らは伊右衛門とは兄弟同然の仲だと言いながら、『四ッ谷雑談集』ではこの婚礼の夜とその翌日の場面にしか登場しない。
この三人については、特定のモデルは見当たらない。仮に誰かモデルに相当するような人物がいたとしても、それは、伊右衛門の再婚の宴に加わったというだけであって、『雑談』の物語とはほとんど関係がない、つまりは創作上の人物に限りなく近いと思われる。ちなみに、三代目とも四代目ともいう高尾太夫を請け出した水戸藩御用達の両替商を水谷庄左衛門というが、おそらく『雑談』の水谷庄右衛門とは無関係だろう。
この場面では、三人のうち、今井仁右衛門が重要人物である。今井仁右衛門という個人がいて云々ということではなく、「今井仁右衛門」という名を付けられた登場人物の語る話の内容が、『雑談』ひいては原「お岩伝説」のありようを垣間見せてくれるからだが、そのことはまた後で述べる。

碁盤忠信

さて、若い三人組が加わったことで、宴は盛り上がった。
伊右衛門が前妻お岩の父・又左衛門の大切にしていた大盃を持ちだして、これで酒の飲み比べを始めた。この逸話が実話なら伊右衛門はかなり無神経なやつである。しかも、「何もの内誰々と云共長右衛門こそ心にくけれ、乍去初たる盃なれば乍慮外女房に始させん」といって、お花に最初の盃をまわすあたり、南北の「芝居」で、「ただ今まで、お岩がまかりあつた床の内、きやつへの面あて。やはりあれへ臥せりませう」と、病身のお岩のために敷いてあった布団の上で、新妻お梅と初夜に及ぼうとする伊右衛門の酷薄ぶりを思い出させる。
ところで、『雑談』から引用した伊右衛門のセリフ「何もの内誰々と云共長右衛門こそ心にくけれ」を『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』では「皆様方のうち長右衛門殿こそ大酒のみ」と訳したが、ちょっと自信がない。「心にくけれ」は、大切な客、上位の人、立場が上、年長者といったニュアンスかもしれない。賢者のご教示を乞う。
ともあれ、盃とともに酔いもまわり宴は盛り上がった。ここで注目したいのは、彼らが話題にしたことである。宴に集まった人たちが盛り上がった話題とは当時流行した浄瑠璃のことで、「其比時花碁盤忠信下り八島節は近江節こそよけれ抔謡ひ舞ふ折節」とある。
浄瑠璃というと今でこそ古典芸能だが、当時としては比較的新しい流行であり、現代の私たちが飲み会で最近のポップスや映画を話題にしているのと同じようなものである。あの芝居がどうとか、あの歌がいいとか話しながら、歌ったり踊ったりしたわけだ。
しかも彼らが話題にしたのは「其比時花(そのころはやりし)」と、当時流行していたものだとの断りがある。だとすれば、ここで挙げられている、碁盤忠信、八島節、近江節から、この宴の行われたと想定されている時期がわかるはずだ。
『実録四谷怪談』でも注を付しておいたが、「碁盤忠信」は古浄瑠璃の演目で延宝年間(1673-1680)が初演。厳密には諸説あるらしい、近世芸能史に詳しい方のご教示を乞う。八島節・近江節はそれより前の明暦から万治(1655-1661)に流行ったという。そうすると、婚礼の夜に「碁盤忠信」の話で盛り上がったという記事が事実であれば、伊右衛門の再婚は延宝年間ということになる。これは事件の発端は寛文の終わりごろ(1670前後)というこれまでの推定とおおよそ一致する。
そこで問題になるのが、伊右衛門の再婚の日付について「文政町方書上」では『雑談』と同じ七月十八日としながらも、貞享四年(1687)の七月十八日だとしていることである。

寛文・延宝か、貞享・元禄か

「文政町方書上」では伊右衛門の再婚は貞享四年(1687)である。そもそも「書上」の記事によれば、事件の発端となる伊右衛門の婿入り自体が貞享年間(1684-1687)のこととされている。このブログでは、お岩失踪は元禄十三年(1700)から約三十年前と『雑談』にあるのに着目して、事件の発端を寛文の終わり頃(1670前後)と想定してきたが、「書上」の記事が間違っているというわけではない。そもそも『雑談』にしろ「書上」にしろ、どちらも伝説や風聞を取りまとめたものなので、どちらかが一方的に正しいというわけではない。
例えば、『雑談』で伊右衛門が入れ込んだふりをしたとされる「比丘尼」という当時のコスプレ風俗は、『武江年表』などによれば天和から貞享の頃に流行したとされる。また、この後で、お岩に真相を告げる煙草屋茂助という人物が出てくるが、刻み煙草の行商は貞享の頃から始まったとする資料(『久夢日記』)もある。
そうすると、こうした『雑談』の風俗描写が正しければ、事件の時代背景はやはり「書上」の記す通り貞享年間だったということになる。
さらに、『雑談』ではお岩失踪を元禄十三年から三十年前とするが、失踪して「元禄十三年中迄三十年の間終に見へざりける」という文の「三十年の間」が、「十三年の間」の書き間違いである可能性もある。『四ッ谷雑談集』は手書きの写本であって、書き写すときについうっかりということがないとはいえない。
もし、「三十年の間」が、「十三年の間」の書き間違いであれば、お岩失踪は元禄元年(1688)あたりのこととなり、『雑談』の世相風俗の描写ともほぼ一致する。
しかし、先にみたように、伊右衛門の再婚の宴で客たちが話題にした当時の流行をもとに時代設定を考えると、寛文の終わりから延宝の初めというのもやはり妥当であり、「三十年の間」というのは書き間違いではないことになる。
私が、「元禄十三年中迄三十年の間」という文言にこだわるのは、これが従来知られてきた『近世実録全書』版『四ッ谷雑談集』にはなかったものだからであり、私自身がこれまで「書上」の記事を鵜呑みにして、事件の発端は貞享の頃と信じて疑わずにきたからである。
寛文・延宝(1670年代前半)か貞享・元禄(1680年代後半)か、これは『四ッ谷雑談集』を読み解く上で避けて通れないアンチノミーである。このアンチノミーは、『雑談』か「書上」か、ということではない。いずれも同じ『雑談』の内容から推測できるもので、「書上」はそのうちから貞享説をとって取りまとめたものだと考えられる。