「四谷怪談」を読む(二十一)お岩、大いに猛る

『四ッ谷雑談集』上巻「多葉粉屋茂助之事 附田宮伊右衛門前妻鬼女と成事」の後半は上巻最大の見せ場である。
茂助から伊東喜兵衛の企みを聞かされたお岩は怒り狂った。鶴屋南北の芝居『東海道四谷怪談』でいえば髪梳きの場にあたる場面だが、舞台をご覧になった方ならご存知の通り、「芝居」のお岩はたっぷりと間を取って髪をすき上げ、ふつふつと恨みをたぎらせていく。静けさがお岩の悲しさ悔しさを観客に印象付ける、そういう演出がなされている。これに対して、『雑談』のお岩はいきなり激怒して暴れまわる。「芝居」が静なら『雑談』は動、好対照な場面である。ついでにいえば、「芝居」の宅悦はお岩の死までを見届けるが、『雑談』の茂助はお岩の形相(面色替り眼逆づり乍左夜叉の如く)におそれをなしてその場から逃げ出してしまう(茂助もよしなき事を咄したりと思へば身の毛立恐敷、差足してぞ逃にけり)。
茂助が逃げ出したあとも、お岩の怒りはおさまらないどころかますますつのっていく。怨みではなく怒りである。「芝居」の陰にこもって怨みをつのらせる演出とは反対に、『雑談』のお岩は盛大に怒る。雲を突き抜けるような大声で「やれ伊右衛門長右衛門喜兵衛を初、来りし女諸共に一人も其儘は置ぬ也」と鬱憤をぶちまけ、泣いて暴れまわり、取り押さえようとした屋敷の若侍を投げ飛ばした。『雑談』は「お岩大に猛て」と形容している。猛烈なのである。なんともパワフルな女性なのである。猛り狂う女、それが「鬼女」の意味である。

うはなり打ち

手のつけられない猛りように皆がおそれて遠巻きにしていると、お岩は「飛上りゝ台所に有ける諸道具共、手桶、火鉢、箱、皿、さはち、或は汁鍋、金十火箸、又は石臼、鉄行燈、當を幸に瓦多離々と」放り投げた。
お岩は飛び上がった。何度も跳ねたのである。猛り狂うさまの形容なのだろう。この動作が何を意味するのか詳しく調べていないが、単に興奮状態を描写したのではなく、なにかもっと異常な状態を示唆しているのではないかと感じる。先行作品の『死霊解脱物語聞書』でも、累に憑依されたお菊は、もがき暴れて三尺ほど浮いたとあるが、あれはフワリと浮いたのではなく跳ねあがったのではないか。跳ねるという行為は常人を越えた何かであることを示唆しているのではないかと思う。
それはともかく、跳ねあがりながら台所に行ったお岩は台所道具を当たるを幸いに放り投げて打ち壊した。「瓦多離々」はガタリガタリという擬音語で、実に派手に壊したらしいことがよくわかる。いくら腹が立ったからといって勤め先の備品を壊さなくてもと思わないでもないが、これはおそらく「うはなり打ち」(後妻打ち)のイメージを重ねた描写だろう。『実録四谷怪談』に寄せたコラムでは「うわなり」と現代風に表記したが、もちろん江戸時代の文献では「うはなり」となっている。
うはなり打ちと怪談の関係については、私自身は池田弥三郎日本の幽霊 (中公文庫)』で論じられているのを読んで知ったのだが、今回調べ直してみたら山東京伝『骨董集』に言及があった。京伝は謡曲「葵上」の例などを挙げて、「かゝれば近むかしの怪談の草紙などに、うはなり打ちを生りやう、死りやうのしわざとせるは、これらのうたひいできて、のちのつくり事なるべし」と書いている。
山東京伝の挙げている例によれば、うはなり打ちはもとは先妻が後妻につかみかかり、あるいは殴りつけ「打合取合、髪かなぐり、衣引破りなんどして、見苦しかりければ」となかなか激しい格闘だったようだが、三田村鳶魚も「女の世の中」(『江戸の女―鳶魚江戸文庫〈2〉 (中公文庫)』所収)で参照している『むかしむかし物語』の筆者がその祖母から聞いた話では、江戸時代の初めにはかなり様式化されていて、先妻側が日時を指定して仲間の女たちとともに後妻方へ乗り込み、台所道具を壊して鬱憤を晴らしたようである。それは「後の妻の方へゆき、台所より乱入、当るを幸ひに鍋も釜も戸障子もうちこわす」と描写されている。『雑談』のお岩がやったことはまさにこれである。
ここからは私の空想である。『雑談』のお岩は、奉公先の屋敷で暴れてから失踪したが、順序は逆だったのではないか。つまり、伊右衛門先妻が夫の裏切りを知って後妻の家に乗りこみ、うはなり打ちをしたことが本当にあったのではないか。ただし、その先妻が史実の田宮岩であったかどうかはわからない。私たちはその先妻こそ、お岩という名で伝えられる田宮家の跡取り娘のことだと思っているが、『雑談』の描き方には、違う時代に起きた二つの出来事を同じ時代のこととして結び付けたような気配がしてならないのだ。結論めいたことをいうのはまだ早いので、ここまでにしておこう。

お岩はどこに行ったのか

さて、暴れまわるお岩は、さらに屋敷の家来二人を、一人は庭に投げ飛ばし、もう一人は蹴倒した。大活劇である。周囲があっけにとられているうちに、お岩は屋敷の門を出て駆けだした。屋敷の者たちがあわてて追いかけたが、四谷の方に行ったことがわかっただけで見失った。
そのまま四谷の実家に帰って伊右衛門をとっちめればよかったものを、なぜかお岩の消息は途絶えた。失踪してしまったのである。屋敷では保証人の又兵衛を呼び出して探させたが「江戸の内無残所尋れ共、行方更になかりける」。見つからなかった。
お岩はどこへ行ったのか。もし『雑談』の描く通りなら、四谷まで行ったが左門町の実家には帰らずそのまま姿をくらました。とすれば四谷塩町の紙売又兵衛も怪しい。けっこう律義なお岩のことだから、走っている間に頭にのぼった血も冷めてきて、保証人の又兵衛のところへ行って事情を話したということはありそうな気がする。そこで、理由はわからないが、又兵衛はお岩の肩を持ち、後は何とかしましょうと言って、服装を替えさせ、旅費を渡した。お岩はそのまま甲州街道を西に向かった。屋敷から呼び出しをうけた又兵衛はお岩を探すふりだけして、違約金を払って穏便に後始末をした。これはまったく私の空想にすぎない。私はお岩が生きていてほしいと願っている。生真面目な気の強い女が不幸な目にあって死に、怖ろしい怨霊となったという結末が嫌なのである。どこかで生きていて、それなりに幸せな一生を終えたと思いたいのである。それくらい、お岩様に惚れて、いえ、お慕い申し上げている。
 ともあれ、『雑談』のお岩は姿を消した。

夫より諸人色々と尋けれ共、元禄十三年中迄三十年の間終に見へざりける。

底本とした写本の大きな特徴はこの一行にある。お岩失踪から約三十年後が元禄十三年である。 この年号は『近世実録全書』には無く、『今古実録四谷雑談』ではただ元禄とだけ記されている。「元禄十三年」、この一語だけでも、ああこの文献を読めてよかった、もう思い残すことはないとしみじみ感じたのだが、甘かった。『四ッ谷雑談集』は私の想像を上回る代物だった。