「四谷怪談」を読む(二十四)お染

いよいよお岩の祟りが語られる『四ッ谷雑談集』中巻に入る。
『四ッ谷雑談集』上巻については前回までにしつこくこだわったように時代設定の問題があったが、中巻・下巻では元禄時代のこととはっきりしているのでこの問題は解消される。
あれから十五年、失踪したお岩が伊右衛門の前に現れる。あれからとは、伊右衛門の再婚からという意味である。これは底本の本文からはっきりとわかる。中巻の最初の章「田宮伊右衛門屋敷へ幽霊出る事 付娘お菊死事」には、再婚の翌年四月に生まれた娘・お染が十四歳になったとあるから、伊右衛門再婚からあしかけ十五年目の春のことである。そしてこの後の章で元禄七年に起きた事件が描かれるので、元禄時代の初めの頃だとわかる。そうだとすると、伊右衛門再婚・お岩失踪はやはり寛文の終わりから延宝の初めということになるはずだが、ここで蒸し返すのはやめておこう。
あれから十五年、平穏な暮らしをおくっていた伊右衛門の前にお岩が現れた。その顛末はWeb評論誌『コーラ』20号に寄稿した「生きている女の幻と心霊研究」の後半に記したので、そちらをご覧いただきたい。
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-5.html
ここでは、伊右衛門と後妻お花の娘お染について紹介したい。

出生の秘密?

お染は、伊右衛門再婚の翌年四月に生まれた。伊右衛門とお花の婚礼はその前年の七月十八日と、これは『雑談』でも「文政町方書上」でも明記されていることなので、だからといって史実と信ずる根拠にはならないが、とりあえずそれを前提にする。
七月結婚で四月誕生だと、指折り数えてみれば、お染は早産で生まれた子のようだ。ここから、実はあの子の父は伊東土快で伊右衛門は腹の子ごとお花を引き取ったのだという噂が生まれたのだろう。ただし、江戸時代の暦には閏月というとんでもないものがあるので、閏月のあった年(閏年)にあたっていたとすると、噂の前提自体が吹っ飛んでしまう。だいいち一般に十月十日とされる妊娠期間も個人差があるようだから、一月くらいの誤差を気にしてもあまり意味はない。
しかし、『雑談』は徹頭徹尾、お染の実父を土快として話をすすめていて、それはそれで面白い。伊右衛門が成長したお染の縁談について、「土快殿の子だから、私が勝手に決めるわけにもいかない、どうしたものかな」(土快殿の世話なれば乍子も我心任せにも不成如何せん)と妻お花に語りかけると、お花も「よい嫁ぎ先があればと土快殿も申されていましたよ」(此程能方あれば土快殿御申也)とあっさり応えている。DNA鑑定がどうのと血統にこだわる現代の家族観からすると実におおらかで、夫婦の会話に暗い感じはまったくない。養子縁組が多かった時代の、ごく普通の感覚だったのだろう。

左門町のアイドル

それはさておき、お染は数えで十四歳になった。「惣領お染十四、次は権八郎十三、三男鉄之助十一、四番目お菊三才」の四人姉弟の長女である。惣領(長女)、次男、三男、四女という数え方は、生まれた順を優先してそれに性別を加えたもので、伊右衛門夫妻の子どもはこの四人で全てである。長女とせずに惣領とあるのは、お岩同様お染を跡取り娘に見立ててのことかもしれないが今はおいておく。ただ、田宮家は女系家族だったのではないかという説もあって、そうだとすれば、ぜひ、よしながふみに漫画化してほしい。
それはさておき、お染は絶世の美少女に育った(成長に随ひ容貌並の人にも勝れ)。美貌だけではなく、和歌、書道、琴をよくし(誰教共なく敷島の道に心を寄、手跡は當世能筆と云し光悦流を学び、琴は錦木勾當も面を恥ぢ)とあるから才色兼備である。
さらに「其外女の不及事迄能学び」覚えたという。この「女の不及事」がなんなのかは底本からはわからない。おそらく儒学か武術だろうと思う。
これは根拠のない妄想だが、お岩も儒学と武術をたしなんでいたような気がする。廃嫡されそうになった時の議論の仕方や、旗本屋敷を飛び出した時の暴れっぷりは、どちらかといえば武士の行動様式である。ともあれお染は和歌、書道、琴のようなお花の影響もあったかもしれない当時の武家女性の教養のほかに、お岩の生き方にも通じる「女の不及事」をも学んでいたことに注目すべきである。
私がお染をお岩に関係づけようと思うのは、鶴屋南北の芝居『東海道四谷怪談』にお岩の妹として登場するお袖の名のモデルではないかと想像しているからだ。そして南北の「芝居」の当初の構想では、お袖は「芝居」のお梅(『雑談』のお花・「書上」のお琴)の役割につけられた名前だった。四谷怪談に登場する女性たちのなかで、お岩は別格であってその強烈なキャラクターは揺るぎない。ところが、お岩以外の女性たちについては、役割が交換可能なような気もしてくる。特に『雑談』のお花は妹分のお梅と対になることで、お岩の妹分ともなりえることは以前に書いた通り。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20131019/1382174722
お染もまた、母お花の分身となることでお岩の妹分としての要素も持ちあわせるように思われる。
さて、お染の才色兼備ぶりは評判になって、会った人はもちろんのこと、会ったことのない人からまで好意を寄せられた(聞伝へたる人迄も恋したはざるはなし)。このあたりも結構重要だ。
江戸は男の多い都市で、美少女は人気者になる。後で出てくる吉原の太夫みたいな芸能人はある意味で大スター級で庶民ではお近づきになるのも大変だから、ご町内のちょっとかわいい娘がもてはやされた。時代は下るが、谷中の茶屋娘にすぎなかった笠森お仙などはその代表例だろう。『雑談』のお染は江戸の町はずれ、四谷の御家人屋敷にパッと咲いた花、左門町のアイドルであった。

二人の父親

それも当然 だ(断哉)と、『雑談』作者は言う。伊東土快は御先手組の同僚56人のなかで無双の男だった(父伊東土快は組五十六人の中にて二人共なき男也)とされる。これまで『雑談』は土快を悪逆非道と言ってきたのに、実はその土快が組のエースだったというのだ。仕事において有能なだけでなく、腕っぷしが強く教養があり男っぷりもよい、そういう人物であったことは上巻の花見の場面からも見てとれる。こうした人物評と、小細工を弄してお岩を追い出す悪党ぶりと、土快の人物像は両義的である。
お染のことに話を戻すと、父土快が好男子だっただけでなく、母お花は好色の土快が並ぶもののない女と認めたほどだから(母のお花も又さしも好色の土快が無並と見し女なれば)、その二人から生まれたお染が並はずれた美貌と才覚をもっているのも当然だ(左も可有)と、『雑談』は言う。「好色」は性的関心に限られない含みの広い概念なので、都会的でお洒落ないい男・いい女を両親に持つお染が美少女に育ったのも当然だと言いたいのだろう。
と、生みの親を強調しながらも、伊右衛門もこの娘を可愛がった(恋寵いと深)。土快が「お染はまぎれもなく俺の実子だ。大名の側に仕えさせるか、大身の旗本の嫁にしたい。与力ふぜいには会わせるな」と言っていたので、十四歳になるまで、屋敷奉公にも出さず伊右衛門のもとで育てた。
「お染は我実子に紛るゝ処なし」という土快の発言には医学的根拠があるわけではない。だいいち、伊右衛門だって「花車男」と言われるだけになかなかの美男子なのである。早産で生まれたお染が評判の美少女に育ったので土快がそう吹聴しただけとも考えられる。
ともあれ、お染は自称生みの親(土快)と実際の親とに可愛がられてすくすくと育ったのだった。

会った人は言うまでもなく噂を聞いた人までも

お岩とお染の、それぞれの容貌について『四ッ谷雑談集』で同じタイプのレトリックが使われていたのに気づいたので加筆する。
お岩については「田宮又左衛門病死之事付小股くゝり又一事」に、「此娘の気色を見たる人は云に及ず、聞及びたる人迄聟に成んと云者なく」とある。
お染については上に書き出したように、「見る人は云に不及、聞伝へたる人迄も恋したはざるはなし」とある。
美醜の評価は正反対だが、それを語るレトリック(「見たる人は云に及ず、聞及びたる人迄」・「見る人は云に不及、聞伝へたる人迄」)は同じである。慣用句的な、紋切り型の言い回しとして使っているだけかもしれないが、お岩とお染を対極の人物として位置付けているようにも思われるのでメモしておく。