時代劇的想像力

渡辺京二維新の夢 渡辺京二コレクション[1] 史論 (ちくま学芸文庫)』に「徳川システムは根本的な改革を必要とする時機にさしかかってはいたが、十九世紀中葉においては社会は変革前夜の緊迫した様相を決して呈していなかった」(「カオスとしての維新」)という指摘があって、私もおおむねそのようだと思う。
もっとも、私がそう思ったのは、渡辺のように史実を検討してのことではない。私の時代劇的想像力の源泉は、もっぱら岡本綺堂『半七捕物帳』によっている。
綺堂『半七捕物帳』は、明治になってから、江戸の往古を知る半七老人の昔語りを記者が聞き取るという形式になっている。つまり、半七親分の現役時代は江戸時代後期から幕末にかけてということになるのだが、そこに描かれる江戸の世態風俗には「変革前夜の緊迫した様相」はあまり見られない。
もちろん、黒船は来航し、異人がらみの事件も起きている(「妖孤伝」「菊人形の首」など)。また「薄雲の碁盤」のように「その頃は幕末の騒がしい最中で」とことわりが入るものもあるが、そこで語られるのは馬場文耕『近世江都著聞集』「三浦遊女薄雲が伝」にも元禄の頃の話として出てくる、薄雲の源氏名をもつ吉原の太夫と猫にまつわる江戸中期の伝説をモチーフにした事件である。
つまり『半七捕物帳』の時代背景はたしかに幕末であり、しかも作者綺堂の時代考証は折り紙つきであるにもかかわらず、その描写からは「変革前夜の緊迫した様相」は感じとれない。江戸の人々は、黒船が来ようが、攘夷騒ぎがあろうが、薄雲といえばかの高尾太夫とはりあった名妓であったなんていうことの方が身近な話題であったようだ。
そうだとすれば「十九世紀中葉においては社会は変革前夜の緊迫した様相を決して呈していなかった」という渡辺の推量も当たっているように思われるのだ。
なんだ、時代劇の印象から当て推量しているだけかとお笑いになる方もおられようが、「そのようだと云うことが大切です」と、半七親分も言っている(「二人女房」)。