諸般の事情から、どうしても公にしておきたい文章があったので、黒猫房主さまに泣きついてWeb評論誌『コーラ』24号に掲載してもらった。宮田登氏の妖怪学のある側面についての一考察である。
ちなみに、ヘーゲルよりエンゲルスの方がよいという書き出しから、観念論より唯物論の方がよいと私が考えていると早とちりしないでいただきたい。
もちろん、野心ばかりあってもなかなか芽が出なかった辛い時期を支えてくれたうえに子どもまでもうけた女性を捨てて、出世のために二十歳も若い娘と結婚した(こう書くと「四谷怪談」の伊右衛門に似てくる)ヘーゲルよりも、ビジネスで成功し、ちょっと困った友人一家の生活の面倒まで見てしまうエンゲルスの方が、社会人として交際するなら好ましいというひいき目はある。
だが、それだけではない。
私の評価基準は実践理性にもとづくものであり、その実践理性理解はウィキペディアよりも有益な百科事典「アンサイクロペディア」の「イマヌエル・カント」の項目にある『実践理性批判』についての簡潔な説明に依拠している。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88
『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft 1788)
「心霊スポット」と世間で噂される場所を実際に訪れ、その真偽を確かめた、心霊スポット案内。
この素晴らしい記事を読んで、そうか、かつて自分のやって来たことは実践理性批判の実践だったのか、と大いに気をよくした。
つまり、実例に即して考察することが大事だということである。
それはともかく、今回は田中佑弥氏の充実した書評も掲載されていて、バラエティに富んでいると思うので、ぜひご覧ください。
■■■Web評論誌『コーラ』24号のご案内■■■
★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html
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●書評●
「未発の政治」は、いつ発現するのか
――『沖縄闘争の時代1960/70』を読んで考えたこと
田中佑弥
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/syohyou-24.html
便宜上、「書評」という形にしておくけれど、専門的見地から評価するとい
うことではない。大野光明『沖縄闘争の時代1960/70――分断を乗り越える思
想と実践』(人文書院、2014年)を読んで、大阪に暮らす一住民として考えた
ことを記しておきたい。
関西における米軍基地問題への取り組みを特集した『PACE』8号(著者が中
心になって編集されている)によって著者が、「大阪沖縄連帯の会」の研究、
京都で米軍基地問題について考える「スワロウカフェ」という活動を行ってい
ることを知り大変興味を持っていたところ、『沖縄闘争の時代1960/70』(以
下では「本書」と表記し、引用は頁数のみを示す)が出版され早速読んでみ
た。(以下、Webに続く)----------------------------------------------------------------
●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第31章 言語・意識・認識(認識フィールド篇、破の部)
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-31.html
第32章 言語・意識・認識(認識フィールド篇、急の部)
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-32.html
中原紀生■二つのこころ─古今序を原起点とするやまとうたの思想
前章の末尾で、古今集仮名序および真名序をとりあげた際、「こころ⇒こと
のは」と「心地⇒詞林」の重層構造に関連して、「こころ」の二相化、という
表現をもちいました。これは、もちろん私の創作ではなく、井筒豊子のオリジ
ナルな議論にもとづくものです。
仮名序において、ひとの「こころ」(意味単位群もしくは意識フィールド)
を「たね」(根源・根基)として「ことのは」(言語単位群もしくは言語
フィールド)となったものがやまとうたであり、そして「こころ」と「ことの
は」の相関者として現象するのが森羅万象(としての「よろづ」、すなわち存
在単位群もしくは認識フィールド)であるとされ、また真名序において、和歌
とはその根を「心地」(空すなわち非現象)に託け、その華を「詞林」(仮す
なわち現象)に発くものであるとされたこと。この、古今序の二つのテクスト
に登場する二つの「こころ」、真名序由来の「心地」と仮名序由来の「ここ
ろ」の関係をめぐって、井筒豊子は、それらは、すなわち「心地[こころ]的
全一主体」と「言語分節的意識主体」とは、「同一の心的主体性の、先行・後
行的二位相[フェイズ]」として現象的に展開するものであり、同時にまた、
「二種の独立固有の主体的事態」でもある、と規定しています。
(以下、Webに続く)----------------------------------------------------------------
●連載〈心霊現象の解釈学〉第7回●
妖怪学の衝突広坂朋信
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-7.html
これまで、このわがまま勝手な断続的連載でカント、ヘーゲル、エンゲル
ス、ベルクソンの心霊現象論を見てきたが、私自身が共感するのはカントとベ
ルクソンである。
ヘーゲルの場合は自らの哲学体系と一致しないから骨相学を否定し、逆にメ
スマーの動物磁気説については自らの哲学体系に親和的であるから肯定したと
いう印象がある。いずれにしてもヘーゲルは伝聞によってしか情報を得ていな
いし、しかもその理論しか見ていない。
エンゲルスの骨相磁気学批判、交霊術批判は実証精神にあふれている点で好
感が持てるが、やはり否定のための検証という印象がある。とはいえ、心霊学
的には、具体例を検討しないで動物磁気説に引っかかったヘーゲルより、実例
を自ら検討したエンゲルスの方がはるかにましであるし、骨相磁気学が一種の
催眠術、交霊術に至ってはトリックであり、むしろ問題はこれにひっかかる科
学者の側だという指摘はまことにごもっともである。(以下、Webに続く)