「四谷怪談」を読む(二十九)小説的な叙述

前回も述べたように『四ッ谷雑談集』(以下、『雑談』)は小説である。物語は江戸時代初期に起源をもつらしい都市伝説を題材としており、描写には江戸時代中期の世相が反映されているとはいえ、現代のドキュメンタリやルポルタージュと同じものではない。
それは、なにも書かれている事柄が事実かどうかわからないということによるのではない。物語の語り方がいかにも小説的なのである。なお、ここで小説的というのは、近代文学における小説という意味ではなく、広く、文芸作品としての物語というくらいの意味で使っている。
『雑談』の地の文は基本的には三人称で書かれているが、そのつもりで読んでいくと、いつのまにか登場人物の独白になっていることがある。しかも、ここから誰それの独白などと断りが入るわけではないので、時折、面食らう。
例えば、鉄之助の死後の伊右衛門夫妻の嘆きを描いた「田宮伊右衛門女房歎之事 付秋山長右衛門娘お常狂死事」は、「扨も伊右衛門は去々年の秋さしもいとほしき娘失ひ今年の八月鉄之助世を去りければ…」と書き出されているように、三人称で伊右衛門について語りはじめている。ところが途中から生前の鉄之助の思い出を語る誰かの独白のような文章になるので、これは伊右衛門の内心の吐露だろうと思って読んでいくと、鉄之助が初めて刀を持たされたとき「長すぎる」と不平を言ったのに対し、伊右衛門が「成長すればそれでちょうどよくなるのだからそのままでいいんだ」と叱りつけたのが情けの薄いことだったと嘆いている。ここでこの独白が伊右衛門以外誰かの独白であったことに読者は気づくわけだが、本文中に誰とは指定されていない。もちろん、我が子の思い出を語っているのだから父親でなければ母親に違いないし、この章の標題には「田宮伊右衛門女房歎之事」とあるのだから後妻お花が早世した息子を思い出している文章になっているのだとわかるのだが、どこで地の文からお花の独白に切り替わったのだか、戸惑うところである。
ちなみに、底本には会話文を示す「カギカッコ」などないので、江戸時代の読者はどうやってこれを見分けたのだろうと不思議に思う。
ついでだが、私がこのブログで「底本」として引く文章は厳密な意味での底本ではない。『四ッ谷雑談集』を貸してくださった小二田誠二先生が肉筆写本から仮に翻刻したものがあって、それに「原文通りでは読みづらいでしょうから」と句読点を振ってくださったのである。そうでなければ、私ごとき素人にとても読めるものではない。小二田先生のご親切のおかげで、こうして『雑談』原文にふれられることの喜びを日々かみしめている。
さて、伊右衛門は、愛娘お菊に続いて鉄之助にも先立たれて、さすがにこたえた。遺骸を寺に葬ったあとも、後妻お花ともども嘆き暮らしていたが、土快や近所の人々になだめられて百ヶ日の法事を行った。
重要な箇所なので底本から引く。

作り置罪は有間敷なれ共、猶又罪軽みぬる為成とて同宗招集て宵よりの題目に拍子木打はり珠数を摺切大勢の者声を揚、南無妙法蓮華経の声家内に響満て講僧も綿帽子をぬぎ、鬼子母神も角を落程なれば鉄之助が後世は頼母子、実に殊勝にぞ聞へし。

法事は、寺院ではなく、伊右衛門の自宅で、同じ宗派の信者が集まって、南無妙法蓮華経と題目を唱えたとあるから、伊右衛門の宗派とは日蓮宗である。前にもふれたかもしれないが、お岩様の墓所日蓮宗寺院にある。しかし、釣洋一氏が調査した史実の田宮家の過去帳によれば、伊右衛門のモデルと想定される人物の戒名は禅宗のものである。伝説のモデルとなった事件を契機に宗旨替えした可能性が高いのだが、この『雑談』では、最初から日蓮宗の檀家であることを前提としている。ここにも『雑談』作者が、享保、あるいはそれ以降の時点での情報をベースに、元禄の頃の出来事を推量して描いていることがうかがわれる。
また、このことは、『雑談』作者が現実の田宮家の関係者なら間違えるはずのないことなので、『雑談』作者が四谷左門町の御家人共同体の外部の人だった可能性をも示唆している。
物語に戻るなら、この法事の夜、秋山長右衛門の娘お常が狂死する事件が起きるだが、それは次の章につながる話なので、あらためたい。

追記・小説的というより講釈的

「小説的叙述」という言葉を使ったが、やはり不適切だったので訂正する。
私が感じたのは、これは記録の文章ではなく、話芸、語りを文字に起こしたものではないかということだった。
「小説的」というと、どうしても書かれた文章を読むという設定での受容となる。けれども、『四ッ谷雑談集』の上記のような描写は、講釈師が聴衆に語り聞かせているような場面を連想させる。というより、そうであれば、「扨も伊右衛門は去々年の秋さしもいとほしき娘失ひ」云々と三人称で語り出しても、「鉄之助が常々手馴し物共見と思へば涙振落目も見えね共」と、手習いの紙をながめて亡き児を偲ぶあたりから、声色を変えて母お花の声で語ったとしても、なんの不都合もなく、聴衆には、ああ母親が息子の死を嘆いている場面だなと伝わる。
実は今、馬場文耕『皿屋敷弁疑録』を読んでいるのだが、さすが文耕は講談師の元祖と言われるだけあって歯切れのよい文章で、ふつうに読んでいても違和感がないのだが、リズミカルな文体はやはり仕草もまじえながら語り聞かせたもののノベライズだからなのだろう。そう思うと、『雑談』もそれに類したジャンルの文章だったのではないかと思いいたった次第である。