Web評論誌『コーラ』26号

Web評論誌『コーラ』に寄稿しました。
岡田有生氏とはじめた<前近代を再発掘する>は、執筆中に私が再手術を余儀なくされたため、話のマクラだけ書いて、あとは岡田氏に丸投げしてしまいました。
私の前置きは読み飛ばして、本論である岡田氏の骨太の議論をお楽しみください。
断続的に書かせていただいている〈心霊現象の解釈学〉も、ある研究会での口頭発表を書き改めたもので、手抜きと言われればそれまでで弁解の言葉もありません。
ただ、これをもってようやく「心霊現象」と呼ばれる怪異体験について語るための地ならしができた、紆余曲折しながら細い道を付けることができたと思っています。
私の言い訳はともかく、今回のWeb評論誌『コーラ』26号には、加藤正太郎氏の辺境から見た日本論とでもいうべきか、なんとも形容のし難い、けれどもとても面白い『旅行記のようなもの──サハリン』が寄稿されていますし、私以外の執筆陣はみなさん力のこもった文章を寄稿されているのでぜひご覧ください。

 ■■■Web評論誌『コーラ』26号のご案内(転載歓迎)■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html
 ---------------------------------------------------------------

 ●特別寄稿●
  旅行記のようなもの──サハリン
  加藤正太郎
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/kikou-26.html
 
 極右勢力の議席独占
  昨年(2011年)12月に行われた衆議院総選挙の直前に私は、朝日新聞大阪府
 版に掲載されていた、ある奇妙なアンケート結果を見たのである。それは、大
 阪府選挙区の全候補者に対して行われたもので、もちろん他に「原発廃止」や
 「消費税増税」や「TPP参加」に対する賛否を問う項目もあったのではある
 が、私の目に飛び込んできたのは、ロシア、中国、韓国、北朝鮮に対する「親
 しみ」を問う項目なのであった。そしてそこには、「ある」「どちらともいえ
 ない」「ない」という回答が用意されており、候補者ごとにその結果が○△×
 という記号で示されていたのである。実をいえば私は、「親しみ」という言葉
 に拒絶反応を示してしまい、熟読することもせず、また切り抜きもしなかった
 ので、その詳細についての記憶は極めて曖昧なままなのである。つまり、もし
 かしたら対象に北朝鮮はなかったかもしれず(「親しみがない」のは当然のこ
 ととされているから)、代わりに「米国」があったかもしれないといったあり
 さまなのであるが、しかしこのことは、私が思わず目を背けてしまった理由に
 は何ら影響しないと思うのである。私は次のように思ったのであった。

 (1)国会議員候補に「他国への親しみ」の度合いなど聞いて何の意味がある
 のだろうか。私たちが知りたいはずのものは、世界平和についての理念や思想
 であり、「親しみ」の「ある・なし」などによって外交方針が左右されること
 があったとしたら、それはむしろ危険なことではないだろうか。
 (以下、Webに続く)

 ---------------------------------------------------------------
 
 ●新連載<前近代を再発掘する>第2回●
  犠牲と平和――河原宏『日本人の「戦争」』から
  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-2.html

  古典の誤用(広坂朋信)
  河原宏『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)の初めの章「日本人の「戦
  争」」は、日本の古典と明治以降の日本人の歴史意識との関係、特にアジア
 太平洋戦争の時代に焦点を当てて、あの戦争の「古典依存的性格」を指摘して
 いる。もっとも、その冒頭で、ラフカディオ・ハーン小泉八雲)の観察に依
 拠して日本人一般の意識を規定している点には賛同できないが、古典の誤用を
 指摘している箇所は興味深い。
  例えば、「海行かば」は荘重、悲壮な曲として知られるが、大伴家持による
 その原歌は「黄金の産出を喜ぶ祝祭歌の一部だった」。ところがこの古歌を近
 代日本が利用したところ「大いなる歓びを歌った原歌が予想もしなかった葬送
 曲、それも日本自体の葬送曲を奏でてしまった」という指摘は面白い。   
 (以下、Webに続く)
 
  ----------------------------------------------------------------

 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第8回
  「不気味なもの」の向こう側へ
  広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-8.html

不気味なもの
  このわがまま勝手な連載で、私は何度かフロイトの有名なエッセイ『不気味
 なもの』に言及しようとしながら、そのたびにためらってきた。それは私がこ
 の知の巨人の理論に通じていないからということももちろんだが、怪異につい
 ての心理学的・精神医学的アプローチに懐疑的だからでもある。
  フロイト自身の言葉によれば、『不気味なもの』の「本質的な内容」は次の
 とおりである。 (以下、Webに続く)
 
  -----------------------------------------------------------------

 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第34章 続・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4
  第35章 続々・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-34.html
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-35.html

  ■生起と喩のメカニズム、再説
  中沢新一氏によって、吉本隆明の「自己表出」と「指示表出」に重ねあわせ
 て論じられた「生起」と「喩のメカニズム」について、いま少し、こだわりた
 いと思います。
  まず、生起について。
  中沢氏自身が書いていたように、この語は、ハイデガーの「エアアイグニス
 [Ereignis]」に由来します。一般には「事件、出来事」と訳され、英語では
 「イベント[event]」、フランス語では、(たとえば、丸山圭三郎が『言葉
 と無意識』で、「人間は、言葉をもったために生じたカオスへの恐怖と、それ
 をまた言葉によって意味化する快楽に生きる。この恐ろしさとめくるめく喜び
 こそ、ルドルフ・オットーのいう〈ヌミノーゼ的体験〉であり、形を絶えず突
 き崩す動きと、動きを絶えず形とする力の舞台であり、そこで起きる〈出来 
 事〉[エヴェヌマン]とは、同時に形であり動きであると言ってよい。」と書
 いていた、その)「エヴェヌマン[e've'nement]」にあたる語です。
 (以下、Webに続く)

  ----------------------------------------------------------------

 ●連載「新・玩物草紙」●
  家は……/消滅可能都市?
  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-16.html

  家は……
  子供のころ住んでいた天窓のある家を夢にみることがある。裏庭から物干し
 台への階段を上り、瓦屋根に這いつくばって天窓から真下をのぞくと、台所で
 は割烹着をつけた母が料理していた。傍らでつまみ食いをしていた弟が天窓を
 見上げ、ここまでおいでと、勝ち誇った顔をして私を悔しがらせた。いま居住
 する高層マンションでは体験できない不思議が幼い日の家には満ちていた。
 《東京の街を車で通りながら、ときおり、はっと息をとめさせるものがある。
 家だ。ふしぎな家を見るのだ。》 (以下、Webに続く)