負けるにしても、「現行民法は違憲とまではいえない」程度ならともかく、現行民法の正統性を積極的に肯定する判決だった。戦後最悪の保守政権下であるから、多様性を求める人々にとって期待のできる判決が出るとまでは思っていなかったが、ここまでひどいとは思っていなかった。
その象徴が「合理性」という語の使用である。単なる現状追認に「合理性」という言葉を用いるとは知性のかけらもない文章だ。理性の誤用を戒めたのはカントだったが、日本の最高裁判事、最高の判断をする人たちは、理性はおろか「理性」という語の使用法すらわきまえない。
今後、この軽薄にして傲慢な判決を盾に、別姓婚を選択した家族への攻撃がさらに増えることだろう。そうした重大な人権侵害を引き起こす罪の重さを判事たちは理解することすらしないだろう。ここには深い断絶がある。
さて、怒りのあまり、前置きが長くなりましたが、私も寄稿させていただいているWeb評論誌『コーラ』27号が刊行されましたので、以下にご案内いたします。
今回からは岡田有生さんにつきあってもらいながら『太平記』を読んでみることにいたしました。中世の混乱した政治と社会の記録文学を読んでいるうちに、学生時代にかぶれた網野史学への疑問点がわいてきたりと、なかなか楽しい読書体験をしたのですが、上手く表現できているかどうか自信はありません。岡田さんの面白いコメントを引き出せただけでもよしとすべきでしょう。
同じ『コーラ』27号掲載の中原紀生さんの論考でも「那智滝図」が、寺田操さんの洒脱なエッセイでは『御伽草子』が取り上げられていますが、日本中世というのは面白い時代だと思います。
もちろん、そのころは夫婦同姓規定などというつまらない法律はありませんでした。北条政子を源政子、日野富子を足利富子と呼んでみたところで、ご本人たちからすれば、「は?なんのこと」という感じだったでしょう。
■■■Web評論誌『コーラ』27号のご案内(転載歓迎)■■■
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http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html
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●新連載<前近代を再発掘する>第3回●
回帰する『太平記』あるいは歴史と暴力
岡田有生・広坂朋信
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-3.htmlなぜ『太平記』か(広坂朋信)
『太平記』を読んでみようと思い立ったのは、なにも岩波文庫版の刊行が始
まったからというだけではない。これまで花田清輝が『近代の超克』などで提
唱した「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえようとす
る」アイデアをめぐって議論してきた。日本の前近代は古代から幕末までの長
い歴史があるが、生活や文化の面で現代とある程度までの連続性のある時代は
室町時代からだとされている。例えば山崎正和は、生け花、茶の湯、連歌、水
墨画、能、狂言、床の間、座敷、醤油、砂糖、饅頭、納豆、豆腐を列挙して、
室町時代が「少なくとも日本文化の伝統の半ば近くを創造した」としている
(山崎正和『室町記』講談社文庫)。「伝統の半ば近く」というところが肝要
であって、もしこれが「伝統のすべて」であれば、それは現代にあまりにも近
すぎて「否定的媒介」とはならない。江戸時代、それも化政期以降の都市文化
を取り上げると、現代にも通じるところがたやすく見つかるためにパースペク
ティブを見誤ることになりかねないのはそのためだ。逆に、平安時代の王朝文
化はあまりに浮世離れしているように見える。その点、室町時代は現代に通じ
るものがありながら違うところは違うので「否定的媒介」として取り上げるに
はなかなか適任だろう。(以下、Webに続く)
----------------------------------------------------------------●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第36章 像と喩の彼岸─和歌のメカニスム5
第37章 続・像と喩の彼岸─和歌のメカニスム5
中原紀生
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-36.html
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-37.html■言語芸術論の構図をめぐる試行的考察(Ver.2)
前章の末尾に、吉本隆明の芸術言語原論(言語の理論)を、X・Y・Zの
三本の座標軸に関係づけて概観したラフ・スケッチを掲げました。それは製作
者自身、得心がいっているわけではない難点だらけの、荒削りな試作品でしか
ないものでした。その後、像と喩にもとづく表現の理論と三基軸との関係につ
いてあれこれ考えをめぐらせ、そこに、吉本表現論における第三の要素(であ
り、かつ、韻律・撰択・転換・喩につづく第五の表現段階)であるところの
「パラ・イメージ」の概念をどう位置づけたものかと思い悩み、そのあげく、
(あいかわらず、意味や価値といった言語の属性をうまく拾いあげることがで
きていませんが)、第二の試作品をこしらえてみたので、その概略(という
か、骨格と若干の素材)を以下に記しておきます。(以下、Webに続く)----------------------------------------------------------------
●連載「新・玩物草紙」●
長田 弘の詩は/御伽草紙
寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-17.html五月十日、夜のNHKニュースで長田 弘の訃報。本棚から『記憶のつくり
方』(朝日文庫/2012・3・30)を取り出して開いてみた。「鳥」「最
初の友人」が印象に残っている。自分の思想や哲学を特定の領域だけで伝達・
自足するのではなく、広範囲の読者へレベルを下げずに発信できる詩人であっ
た。「肩車」冒頭から。
《肩車が好きだった。父によくせがんだ。背をむけて、/父が屈みこむ。わた
しは父の頭に手をしっかりのせて、/両脚を肩に掛ける。気をつけなければな
らないのは立ち/あがるとき。わずかに父の両肩のバランスが崩れる。そ/の
バランスの崩れをうまくしのがねばならない。立ちあ/がってしまえば、あと
は大丈夫だ。わたしはもう誰より/も高いところにいる。わたしは巨人だ。
ちっちゃな巨人/だ。わたしの見ているものはほかの誰にも見えないもの/
だ。父さえ見ることのできないものだ。》 (以下、Webに続く)
以上。ご案内まで。