『パイドロス』四

「堂々と頭を出して」語られるソクラテスの持論は、狂気を積極的に肯定するところから始まる。
「われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。
 まことに、デルポイの巫女も、ドドネの聖女たちも、その心の狂ったときにこそ、ギリシアの国々のためにも、ギリシア人のひとりひとりのためにも、実に数多くの立派なことをなしとげたのであった。」(p52)
ソクラテスは予言術と占い術を比較して狂気は正気に勝っていると説く。古人は「技術の中でも最も立派な技術、未来の事柄を判断する技術」である予言術の名に、狂気(マニアー)という語を織り込んで「この技術を「マニケー」(予言術=狂気の術)と呼ぶ」ようにした。一方で「ひとが正気のままで、鳥の様子や、そのほかのしるしを手がかりにして、未来の事柄を探究する技術」である占い術は「思考のたすけをかり、人間の憶測(オイエーシス)をはたらかせて、未来への洞察(ヌゥス)と識見(ヒストリアー)を得るという事実にもとづき、この最後の三つの名前を組み合わせて、これを「オイオノイスティケー」(占い術)と名づけたのである。」(p53-p54)
「このようして、予言術が占い術よりも、その名前においても、その実際の仕事においても、いっそう完全なものであり、いっそう尊ぶべきものであるのと同じ程度に、ちょうどそれだけ、神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである。」(p54)
このように正気と狂気の価値を逆転させることによって、真剣な恋愛は一種の狂気であるがゆえに自分を愛する者よりも愛さない(正気の)者にこそ身を委ねるべきだとするリュシアスの恋愛論を、ソクラテスは反駁する。
「すなわち、この恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられるということだ。その証明は、単なる才人には信じられないが、しかし真の知者には信じられるであろう。」(p55-p56)
単なる才人(リュシアス)には信じられないが、しかし真の知者(ソクラテス)には信じられる証明とは何か。ソクラテスは「魂というものの本性について」語り始める。その内容はそれ自体がもはや一種の神話というべきであろう。いわゆるイデア説が述べられるのだが、ゼウスを筆頭とするオリュンポス十二神の統べる天界の存在が前提とされ、現世とは異なる神々の世界は、そこにおいて本来は不死の魂が真実在にふれる場とされている。そうである以上、なおさらそれは神話の伝えるとおりに実在するのか、それとも何かの寓意・象徴なのか、あるいは現実の出来事の反映なのか、こうした問いがソクラテスプラトン)にとって「自分に関係のない」ものだとはとうてい思えない。

予言と占いと狂気

ここで予言術と占い術の区別についてよく考えてみたい。この区別は単なる違いの指摘ではなく、予言術を占い術の上位においており、その線引きの基準は「神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものである」というものである。
ここで占い術といわれているものは「正気の分別」により「鳥の様子や、そのほかのしるし」など自然界の示す徴候を読みとり、思考の働きによって予測を得ることだから、現代の天気予報と単に精度が違うだけでその仕組みはなんら変わるところがない。道路が渋滞しそうかどうかとか、この会社の株価は上がる下がるかとか、今度の選挙ではどの候補が当選しそうか、という私たちが日常おこなっている予想も、ここでいう占い術なのである。これは大森荘蔵の言う略画的世界観と密画的世界観ということに通じるものだと思う(大森『知の構築とその呪縛』ISBN:4480081402)。
他方、予言術については「神から授けられる狂気」、すなわち神託によって吉凶を判断するものでシャーマニズムと言い換えてもよいだろう。プラトンシャーマニズムを肯定しているのである。それも、訳者藤沢令夫氏による訳注によれば、デルポイもトドネも古代ギリシアにおいて権威ある神託の社であったそうだから、国家のあり方と結びついた正統的な宗教である。
このことから『パイドロス』を読み始めるやすぐにも私の気にかかってきた疑問、いったいソクラテスプラトン)が神話を信じているのは、本気で信じているのか、それとも「われみずからを知る」という「肝心の事柄」に比べれば「自分に関係のない」ことにこだわっているのは無駄だからという一種の暫定的道徳であるのか、という問いに一つの見通しを与えてくれるように思う。
古代ギリシアの神話・伝説は、ソクラテスプラトンが活躍した古代ギリシアから見れば時間的にも空間的にも遠く離れた異教の地に生まれ育った私などはついつい「ギリシア神話」として一括りにしてしまいがちだが、古代ギリシア人、少なくともソクラテスプラトンたちにはその内容によって重要度に差があったのではないか。北風の神ボレアスがオレイテュイアという娘をさらっていったという伝説やヒポケンタウロス、キマイラ、ゴルゴ、ベガソスといった「妖怪めいたやからども」や「怪物たち」は、合理的解釈もできるがいちいちつきあうほどのものでもないが、デルポイやトドネで巫女の口を借りて神託を下すアポロンやゼウスへの信仰はそれらとは別のものである、というような。
私には「神から授けられる狂気」と「人間から生まれる正気の分別」とを分割する線は、予言術と占い術の間を分けると同時に、神託を下す神々と妖怪・怪物との間も分けているように思われる。どうも私の疑問を解く鍵はこの分割線にあるようだ。この分割がプラトニズムの特徴かどうかは他の著作に当たってみないとわからないが、少なくとも『パイドロス』においてはそうだと思う。

この先は少し頭を冷やしてから

ぐちゃぐちゃ書いてみたが、どうせ私が思いつく程度のことは先人がもっとすぐれたやり方で上手に言っているに違いない。少し頭を冷やしてから研究書などにも目を通してみることにしよう。
なお『パイドロス』後半では言語論、文章論がエジプト神話に託して語られているのも面白い。
プラトンパイドロスに「ソクラテス、あなたは、エジプトの話でも、また気の向くままにどこの国の話でも、らくらくと創作されますね。」(p135)などと言わせているが、トト神が文字を創造したという説話は細部はともかく確かにエジプト神話にあるから、プラトンの創作ではなく、この話はプラトンにとって「真実を伝えるもの」(p135)だったのだろう。
このあたりのこともいつかまた考えてみたい。