神への畏れ?

先日来、八木秀次氏の反「人権」宣言 (ちくま新書)を読んでいるが、どうも首を傾げるところが頻発してたいへんです。八木氏が政治的主張を強く打ち出す学者だということは承知していますので、氏の政治的見解が述べられていることは別に構わないのです。ただ、議論の運びに無理があったり、文脈を無視した引用、恣意的な解釈などがあまりに多い。これはどうかと思います。
八木氏は、ロック的人権が神の権威を根拠とすることの意義について、一転して次のように肯定的にも書いている。

ロックの主張した元の意味に戻れば、同じく神の下で共同生活を営んでいる他者も、自分と同じ神の被造物であるがゆえに神聖な存在である。その権利は不可侵なものであり、みだりに侵してはならないものだという、他者への配慮を言ったものである。
 つまり権利の根拠として神を想定する意義は、権利行使に当たって神への畏れとそれゆえの責任が伴うことにある。また、各人がともに神への畏れと責任感を抱くということが共同社会を維持し機能させる基盤でもある。ロックが言っているのはこういうことであろう。(八木、p47)

神への信仰が共同体の統合原理として機能することもあることはごく一般的に言えることだろう。また、ヨーロッパにおける責任の観念の成立には神と人との関係が影響しているというのも一般的には言えることである。
しかし、ロックはそのように主張していただろうか。
確かにロックは(キリスト教社会では一般的だが)人間を神の被造物とみなし、人権を神が被造物に与え給うたものであるとした。しかし「権利行使に当たって神への畏れとそれゆえの責任が伴う」とか、「各人がともに神への畏れと責任感を抱く」ということをロックが言っている文言は見当たらないのである。
念のため八木氏が参照している中公『世界の名著』版世界の名著 27 ロックもひっくり返してみたが、ロックは「神への畏れとそれゆえの責任」とは一言も言っていない(義務については述べているが、それは「人々が相互に交わす愛情の義務」「人々が互いに負うている義務」であり、神に対するものではない)。また、それが「共同社会を維持し機能させる基盤でもある」とも言っていない。
公平を期すために付け加えれば八木氏は「ロックが言っているのはこういうことであろう」と言っているのであって、それは八木氏なりにロックの胸中を忖度して言えばこうも解釈できる、ということなのだろう。
私とて一字一句同じ言葉をロックが言っていないからといって苦情を申し立てるほど偏屈ではない。表現は異なっても八木氏の言う「神への畏れとそれゆえの責任」やそれが「共同社会を維持し機能させる基盤でもある」ことと同趣旨の事柄をロックが主張しているとも解釈できる文章があればそれでよい。ただ、そのように解釈できると思える文章が、ロック『市民政府論』本文中には見当たらないのだ。
それが解釈であるならば、ロックのどの文言をどのような視点から解釈してそれがロックの真意であると言えるのか、明示すべきではないだろうか。
ついでに付け加えるならば、ロックの言う「共同社会」とは私たちが世俗的な市民社会という意味で日常使う「社会」という言葉と大きな違いはないように思える。しかし、八木氏は、ロックの言う「共同社会」を「各人がともに神への畏れと責任感を抱くということ」によって「維持し機能させ」られる、としているところから見て、信仰を共有する共同体のようなイメージでとらえているフシがある。
例えば、柳田國男氏神と氏子」(『柳田國男全集14』所収)の次のような一節ある。この方が、ロックの共同社会よりも八木氏の共同社会のイメージによほど近いのではないかと思う。

氏神の恵みは氏子の全部に共通なもの、すなわち公共に祈願せられるものにもっぱらであったことで、従って住民の欲するところが、区々対立せざることを条件としていた。農村は都市に比べて、前代はまた今の世にも増して、氏神の神徳を仰ぐことの深かったのはその自然の結果である。いずれの宗教でも、気が揃うということは大切な条件であるが、我々日本人ほどこれを重んじた民族も少なかった。仏法が民間に入って来るまでは、我々の信仰は一門一郷党、衆とともにしかこれを表白する途をもたなかった。社会が大きくなって、始めて我々は身の孤独を感じ出した。そうして今日盛んになった個人起請などは、いわば抜駆けの功名であった。(柳田、p571-572)

そこで悪のりして八木氏の論法を見習って言うならば、つまり八木氏は、柳田民俗学が描くような鎮守の社への信仰を共有することによって維持されている村落共同体のようなものを共同社会として考えており、そこでは「住民の欲するところが、区々対立せざること」「気が揃うということ」が重んじられ、権利の主張は「一門一郷党、衆とともにしかこれを表白する」ことはない。したがって、個人の権利行使は、集団内の調和を乱す「抜駆けの功名」のような好ましくない行為であって、氏神に対して畏れおおいこととしてタブーとされるべき事柄である。八木氏が言っているのはこういうことであろう。