誤解か欺瞞か

三日続けて八木秀次反「人権」宣言 (ちくま新書)』中の、これはどうかな、と思う記述を取り上げてみたが、文脈を無視した引用や恣意的な解釈が多くいちいち挙げていたらキリがない。これは八木氏の政治的な主張に賛成するかしないかということ以前の問題で、はなはだしくクォリティーの低い議論だ。西部邁佐伯啓思なら、こんな程度の低いこじつけはしないだろう。
もういい加減あきてきたところだが、昨日、八木氏が監修だか執筆だかをした中学校公民の教科書が栃木県大田原市で公立中学校の教科書として採用されたと報じられていた(http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/kyoiku_main.html)ので、もう一つだけ気のついたことを書き留めておく。

 その意味ではナイフを振り回しつつ、それを注意されると「人権侵害」の声をあげる子供たちは「「人間」の権利」としての「人権」概念の申し子と言ってよいだろう。彼らは心の中に「制約の原理」を持たず、ただただ自分のやりたいことを素直に口に出し、行動に移しているだけである。しかし、「人権」の立場から見れば、彼らは何も間違ったことをしているわけではない。彼らは「人権」イデオロギーの体現者であり、「人権」教育の優等生なのである。(八木、p81)

この文章は、八木氏が「人権」について大きな誤解をしているか、あるいは「人権」についてよく知らない人をだまそうとしているか、のいずれかであると仮定しなければとても理解できない。
屁理屈をこねる必要などない。このケースの場合、人権侵害をしているのは「ナイフを振り回しつつ、それを注意されると「人権侵害」の声をあげる子供たち」の側であり、「「人権」の立場から見れば」彼らは間違っていることは明白である。
彼らが口にする「人権」とは、「オレの勝手にさせろ」というほどの意味でしかないことは、大人なら誰でもわかることである。
八木氏が近代人権思想の悪しき代表例として引いているロック『完訳 統治二論 (岩波文庫)』の言葉

「理性にちょっとたずねてみさえすれば、すべとの人は万人が平等で独立しているのだから、だれも他人の生命、健康、自由、あるいは所有物をそこねるべきではないということがわかるのである。」(あえて八木前掲書p45から孫引き)

を参照するまでもなく、人権という思想にはお互いに他人の権利を尊重しあうことが含まれる、ということは、日本語の常識に沿った理解であろう。
どうやら八木氏の言う「人権」とは、日本語の常識をかなり逸脱したもののようだ。
しかし、引用した八木氏の文章には、さらに困った問題がある。
それは「ナイフを振り回しつつ、それを注意されると「人権侵害」の声をあげる子供たち」はどこにいたのか、ということだ。