特殊なレトリック

昨日、八木秀次氏の『反「人権」宣言』ISBN:4480058982解釈について些細な異議を書き留めておいたら、amgunさんにコメントをいただき、amegriffさんにもご紹介いただく栄に浴しました。お二人のブログはかねがね拝見していただけにうれしい。
そこで調子に乗ってもう一発。
八木氏の政治的な立場云々以前に、この『反「人権」宣言』には非常に特殊なレトリックがちりばめられているように思うのです。私は法学、社会思想方面の専門教育を受けたことがないので、素人の素朴な疑問の域を出ませんが、それにしてもおかしい。
法学・政治学の専門家ならすぐに気のつくようなことでしょうから、とっくにご承知の方も多いとは思いますが、私が読んだ範囲で、これはちょっと、と思った特殊なレトリックの典型例をもう一つ挙げておきます。

解釈上の誤謬、または知的不誠実

八木氏は「我が国の戦後の憲法学をリードしてきた宮沢俊義」の人権理解にふれて次のように言う。

 つまり徹底的に世俗化され、超越的原理を想定しない「人間がただ人間であるということのみにもとづいて」人間は尊厳性を有すると理解し、そういう「人間」が有する権利を「人権」と言うのだと肯定的に主張するのである。
 しかし、宮沢が肯定的に理解したような「人権」はもはや哲学的な基礎づけが不可能であり、その立論の根拠も希薄であるとの指摘がなされている。アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは次のように指摘している。
「人権は、人間の本性に関する何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学の構想には依拠しないということです。これはたとえば、人間は一人一人が道徳的人格であり等しい価値を持つとか、人間にはある特別な道徳的ないし知的が能力が備わっているために人権があるといった考えに頼らないということです」(S・シュート、S・ハーリー編『人権について』中島吉弘・松田まゆみ訳、みすず書房、一九九八年)
 ロールズは「人権」には哲学的根拠がなく、「人間が人間であることのみにもとづいて」有する権利であるとする概念だと指摘するのである。(八木、p77-78)

「知的が能力が備わっている」は単純な誤記だろうが、「権利であるとする概念だと指摘する」という特殊な表現については、八木氏の専攻する憲法学・思想史の学会では通用するかも知れないが、常識的な日本語としてはこなれていない。が、まあ、そういうことはこの際どうでもよいこととしよう。問題はこの文章の内容である。
まず八木氏は「「人権」はもはや哲学的な基礎づけが不可能であり、その立論の根拠も希薄であるとの指摘がなされている」という。そう書いている。そしてこの文章にすぐ続けて「アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは次のように指摘している」と書いている。目の錯覚かと思ったが確かにそう書いてある。
ごくふつうの日本語の感覚では、こういう場合、「「人権」はもはや哲学的な基礎づけが不可能であり、その立論の根拠も希薄であるとの指摘」を「アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズ」がしている、と受け取るだろう。つまり、八木氏は「アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは」「「人権」はもはや哲学的な基礎づけが不可能であり、その立論の根拠も希薄である」と指摘している、と述べている。私にはそのように読めるのだが、違うだろうか。
そしてこのロールズを援用しての「「人権」はもはや哲学的な基礎づけが不可能」だという八木氏の発言は、「宮沢が肯定的に理解したような「人権」」に向けられている。つまり八木氏は人権について、宮沢俊義は人権を肯定的に理解したがそんなものは哲学的な基礎づけが不可能な根拠の希薄なものなんだ、と否定的な評価をしている。そしてその自説の補強のために、ロールズだってそう言っている、と主張している。そう読める。
つまり「人権」の評価について八木氏とロールズは一致して否定的である、と引用した八木氏の文章は読者に印象づけている。
では、ロールズは人権を否定的に語っているのだろうか。
八木氏が引用しているロールズの言葉は『人権について』と題された論集に収められている「万民の法」という論文の一節である。

人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

この論文でロールズは次のように言う。

他の人の包括的な宗教・哲学・道徳上の教説が道理ある正義の政治的構想に従って追求されているならば、リベラルな社会の市民はそれらを尊重しなければなりません。ちょうどそれと同じように、他の社会の政治的・社会的諸制度が、道理ある万民の法をその社会が遵守するよう導く一定の条件を満たしているならば、リベラルな社会は、包括的教説に則って組織された社会を尊重しなければならないことになります。(p52)

長々と引用したのは、「包括的な宗教・哲学・道徳上の教説」、「包括的教説」が、狭い意味でのリベラリズム、ある特定の主義主張としての自由主義とは必ずしも一致しないある特定の主義主張を指して言われている言葉であることを示したかったからだ。
ロールズの「万民の法」構想は、近代ヨーロッパ市民社会出自の人権理念を力によって強制するような普遍化ではなく、リベラリズム以外の「包括的な宗教・哲学・道徳上の教説」によって組織された社会をも尊重するような、人権理念のより普遍的な拡張をめざしている。
だからロールズは人権について次のように言う。

どのような社会でも基本的人権を尊重しなければならないが、必ずしもリベラルである必要はない、ということなのです。それはまた、人権の担う役割が道理ある万民の法に不可欠なものであることをも示しています。(p53)

このようにロールズは人権について否定的な評価をしてはいない。むしろ、積極的にその可能性を拡大しようとしている。
さて、八木氏が引いているのは「万民の法」の第5節「人権」の冒頭部分だが、前後がカットされている。まずそれを復元してみよう。

 ここまで描いてきた人権というものの特徴を二、三挙げると、次のようになります。まず、人権は、人間の本性に関する何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学の構想には依拠しないということです。これはたとえば、人間は一人一人が道徳的人格であり等しい価値を持つとか、人間にはある特別な道徳的ないし知的な能力が備わっているために人権があるといった考え方に頼らないということです。この考えを推し進めていけば、きわめて深遠な哲学理論が必要となり、階層社会の大多数とはいわないまでも多くは、こうした理論をリベラルだから、民主主義的だから、あるいはどのみち西欧の政治的伝統に特有のもので他の諸文化には有害だから、として拒絶することでしょう。(p84)

ロールズのいう「ここまで描いてきた人権」というのは、「万民の法」という構想において考えられてきた人権、という意味である。その人権概念は万民に受け容れられなければならない。だからこそ「何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学の構想には依拠しない」のだ。
逆に「何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学の構想」に依拠するならば、それは「何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学」、例えばキリスト教道徳とか啓蒙主義哲学とかを信奉する人々に対してしか意味のないものになってしまう。
また、人が生存や自由や平等などの基本的人権を主張するために、いちいち「何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学」に基づかなければならないという「考えを推し進めていけば、きわめて深遠な哲学理論」が必要となり、そうなれば「階層社会の大多数とはいわないまでも多くは、こうした理論をリベラルだから、民主主義的だから、あるいはどのみち西欧の政治的伝統に特有のもので他の諸文化には有害だから、として拒絶することでしょう」。
それでは人権は万民のものとはならない。そこで人権という理念を生み出した近代ヨーロッパ市民社会の道徳や哲学をあえて切り離す必要がある。
だから、「何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学」に頼らない、「人間は一人一人が道徳的人格であり等しい価値を持つとか、人間にはある特別な道徳的ないし知的な能力が備わっている」というような人間の本質規定を必要としないものとして人権を考えなければならない、というのがロールズの主張である。
念のため、私が引用しなおしたパラグラフに続く文を挙げておく。ロールズは次のように提案している。

 そこで私たちは別の方針をとることにし、基本的人権は、正義にかなった万民の政治社会の正規の構成員であるすべての人民のための秩序ある政治制度のミニマム・スタンダードを表現するもの、ということにしましょう。基本的人権に対する組織的な侵害はいかなるものであれ重大な問題であり、リベラルな社会と階層社会の双方を含む万民の社会総体の不利益となるものです。基本的人権が表すものがミニマム・スタンダードである以上、この権利を認めるのに必要な条件は、当然にもごくささやかなものとなります。

このように、ロールズの「人権は、人間の本性に関する何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学の構想には依拠しない」という文は、人権は道徳的でないとか哲学的根拠に欠ける(からダメだ)ということを言わんとした文ではない。
むしろ、特定の道徳や哲学に依拠したような人権の理念では、その特定の道徳や哲学を支持しない人々を閉め出してしまうから「別の方針をとること」にして、人権をより普遍的なもの「すべての人民のための秩序ある政治制度のミニマム・スタンダード」にしようとする構想のなかでいわれた言葉なのである。
八木氏はロールズの議論のこうした文脈を無視して、人権は底の浅い利己主義の思想だ、という自説を権威づけるために都合のよい部分だけを切り取って引用している。八木氏の文章を思い切り善意に読んで、意図的ではなかったとしてもそれは解釈上の誤謬であり、もし故意だとすれば知的不誠実の誹りは免れない。
これはロールズの構想に賛同するかしないか、また、ロールズの構想が成功していると見るか失敗していると見るか、にはまったく関係のないことである。また同様に八木氏の政治的立場に賛同するかどうかとも関係がない。それ以前の問題である。