スピノザ抜き書き

このあいだ突然延期された企画の後始末がまだできない。おかげで他の仕事も進まずイライラする。
八つ当たりしていても仕方がないので、ベンヤミンの予習と社会契約説のおさらいのために苦手のスピノザを拾い読みする。
スピノザ神学・政治論 下巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫)』より抜き書き(表記はあらためた)。

自然の権利及び自然の法則をば余は各個物の本性(自然)の諸規則そのものと解する。我々の考えに依れば、この諸規則に依って各物は一定の方法に於いて存在し・活動すべく自然から決定されるのである。例えば魚は泳ぐように、又大なるものが小なるものを食うように自然から決定されている。従って魚は最高の自然権に依って水を我が物顔に泳ぎ廻り、又大なるものが小なるものを食うのである。

(下巻、p163-p164)

パウロは、律法以前には、換言すれば人間が自然の支配下に生活すると観られる限りに於いては、罪なるものを認めていないのである。
 故に各々の人間の自然権は、健全な理性に依ってではなく、反って欲望と力とに依って決定される。

(下巻、p165)

斯くて自然の支配の下にのみ在ると観られる限りに於いての各人は、自分に有益であると判断する(健全な理性の導きに依ってにもせよ又感情の衝動に依ってにもせよ)ところの一切を最高の自然権に基づいて欲求し得るのであり、又之をあらゆる方法で−−暴力に依って、或いは欺瞞に依って、或いは懇願に依って、或いはもっと容易に思われる何らかの手段に依って、−−自分の手に入れてよいのであり、従って又各人は自分の意図の達成を妨げようとする者を自分の敵と見なしてよいのである。

(下巻、p166)

とはいえ、理性の諸法則・理性の一定命令に従って生活する方が人間にとって遙かに有益であることは何びとも疑い得ない。理性の命令は、既に述べたように人間の真の利益のみを目ざすから。(中略)
人間は安全に且つ立派に生活するためには必然的に一つに結合しなければならなかったのであり、そしてこれに依って彼らは万物に対して自然から与えられた権利を共同で所有するようにし、又その権利がもはや各人の能力と欲望によってではなく万人の力と意志とに依って決定されるようにしたのであることを認めるであろう。然しこうした試みは、もし彼らが欲望の囁きにのみ従うとしたらうまくいかなかったであろう(各人は欲望の諸法則に従って種々の方向へひきずられるから)。従って彼らは理性の命令(何びとも無分別であるとは思われたくないために正面から理性の命令に反対することをあえてしない)のみから一切を導き、欲望は他人に何らかの損害を引き起こす限りは之を抑制し、自分がされたくないことは他人にもせず、最後に他人の権利を自己の権利同様に守るということを固き取り決めに依って契約せねばならなかった。

(下巻、p168-p169)
書き写してみて気がついたのだが、そんなに難しい話でもない。苦手意識を持っていたのは、もしかしたら、訳本が旧字・旧仮名のためか。
「自然」から「理性」や「自由」がどう導き出されるのか、というところがちょっと気になるが『エチカ』にでも書いてあるのだろう。このあたりは専門家による研究論文が山のようにあるに違いないから、いずれ読んでみよう。

微訂正

「社会契約論」ではルソーの著書名になってしまうから、社会契約説になおした。なおしてみたからといってなにがどう変わるわけでもないが。