昨日のベンヤミン『暴力批判論』についての記事の補足。
高円寺の落書きや立川のポスティングを思い浮かべれば、ことは簡単だったのだ。中途半端に勉強した者の悪い癖で、警察暴力を批判しながらベンヤミンが想定しているものは何だったろうなどと考えるものだから、かえってわからなくなる。
法措定的暴力と法維持的暴力の「オバケめいた混合体」とは、やりたい放題、ということなのだ。
私は、警察無用論を唱えたり、警察官をポリ公とか「イヌ」と蔑称するつもりはない。
犯罪の取り締まりは誰かがしなくてはならないし、現場の警察官の大半は職務に精励しているだろうと思う。
問題はそういうことではない。
警察という制度には、警察官諸個人の良心とはかかわりなく、職権濫用が濫用ではなくなってしまうような傾向が潜んでいる、ということなのだ。

むしろ警察の「法」が根本において表示しているのは、国家が、なんとかして押し通したい具体的目的を、無力からか、それともあらゆる法秩序に内在している因果関係のためか、もはや法秩序によっては保証しえなくなっているところ、まさにそのところにほかならない。だから警察は、明瞭な法的局面が存在しない無数のケースに「安全のために」介入して、生活の隅々までを法令によって規制し、なんらかの法的目的との関係をつけながら、血なまぐさい厄介者よろしく市民につきまとったり、あるいは、もっぱら市民を監視したりする。(ベンヤミン『暴力批判論』)

高円寺の落書きや立川のポスティング事件のように、そんなことが警察の出番か?と耳を疑うようなことにまで出てきてしまう。「国家が、なんとかして押し通したい具体的目的」なんて、このケースのために書かれたような文言だ。
いま、国会で審議されている共謀罪もよい例だろう。
犯罪を未然に防ぐという名目で、未然の犯罪、まだなされていない行為が取り締まりの対象となる。これは隠された犯罪を摘発する、ということではない。まだ何も起きていないところに「犯罪」をつくりだして、それを取り締まる法案である。実際の被害者がいないどころか、加害者すらいない。
実行犯の存在しない事件。推理小説というより、カフカ的な世界だ。あれがただの現実になってしまうなんて、あまりにシュールで頭がくらくらする。