『野ブタ。をプロデュース』

野ブタ。をプロデュース

野ブタ。をプロデュース

テレビドラマが放映中の話題作。
高校二年生の修二は、ふだん「クラスの人気者」の役を意識的に演じているが、ひょんな偶然からいじめられっ子の転校生「野ブタ」(テレビでは女子生徒に変えられている)をクラスの人気者に仕立て上げる約束をしてしまう。さえない風貌のため、クラスメイトから徹底的に無視され、いじめっ子の暴力の格好の標的となっていた「野ブタ」をどうやって変身させるのか。アクターからプロデューサーに転身した修二の作戦とその顛末がテンポよく語られる。
対人関係に鋭敏な醒めた感覚を持ち、それだけに不安もかかえた少年を語り手兼主人公として彼の身の回りの出来事を描くというスタイルは、サリンジャーライ麦畑でつかまえて』以来の青春小説の定番。この変奏曲の数はどれほどだろう。
ただし、これまでの『ライ麦畑』の亜流が世間の押しつける価値基準に反発し(尾崎豊的に)、「本来の自分」を模索しようとしていたのに対し、本作の修二はそれを180度転換し「誰が何を考えていようと、社会の中でそれぞれが決められて役割を演じていれば、何事もなく一日は過ぎていく。俺たちは生徒として席に着き、おっさんは教師として教壇に立つ」という世界観を持って学校では人気者の「片桐修二」という「着ぐるみ」を被って生きる少年である。
この考え方はある意味では正しい。かのシェイクスピアも言っているではないか、「世界は舞台、人はみな役者」と。
ただ、「着ぐるみ」を被るというのは、やはりどこかで「本来の自己」を信じているからこそする自己防衛のような気がする。「本来の自己」なんていうと実存主義めいてくるけれども、役を演じていない役者は何者でもない、としたサルトルの方がシェイクスピアにより近いところにいたということだろうし、それがハイデガーの亜流とサルトルを分ける境界線であるように思う。