ベンヤミン「暴力批判論」再考

余暇を利用してベンヤミン「暴力批判論」のとくに後半部分を再読した。
以下長文。

カント観について

ゲーテの「親和力」について』でベンヤミンはカントの婚姻の定義を次のように評価する。

事柄の実際に即した婚姻の規定という点で、カントの命題は完全なものであり、予感を容れないという意識において崇高である。(『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』P47)

ベンヤミンは、現実にピッタリ当てはまる、という点でカントを評価している。しかし、「婚姻の即物的自然から演繹できるのは、明らかにその非道徳性だけであろう」。
ついでに、中島義道がこんなことも書いているので引いておく。

何が目的としての人間性に適ったことであるのかは、何が適法的行為か、何が非適法的行為かの判定に依存する。そして、その判定は定言命法だけからは少なくとも直接には出てこないのであり、定言命法を時代および社会の通念とカント固有の人間観(価値観)とに重ね合わせて、はじめて導くことができるのだ。(中島義道『悪について』岩波新書、p31)

これは、ベンヤミンも批判している『道徳形而上学原論』の定言命法、〈汝の人格のうちにある人間と、それぞれの他者の人格のうちにある人間とを、つねに同時に、決してたんに手段としてではなく、目的として使用するように行為せよ〉について言われたものだが、もう一つの定言命法、『実践理性批判』に出てくる「汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」についても示唆的である。
これについてのベンヤミンの文章を再度引く。

あの正しい目的をなんらかのありうべき目的として考える、とはつまり、普遍的に妥当するものとしてばかりではなく(この普遍妥当性は正しさの徴表から分析的に導かれてくる)、普遍化されうるものとしても考える(そのように考えることは、あとで示すように正しさの徴表とは相容れない)、という習慣である。というのも、ある状況にとって正しくて、普遍的に承認することができ、普遍的に妥当する目的も、別の−−たとえ他の点ではどれほど似ていようと、別の−−状況にとっては、そうではないからである。(ベンヤミン「暴力批判論」『ドイツ悲劇の根源〈下〉 (ちくま学芸文庫)』、p263)

自らの格率を普遍的に妥当するように行為することと、自らの格率を普遍化することとは似て非なるものである。後者は主観的な正しさの押しつけになる。だからといって、客観的な正しさがそれ自体としてあるわけではない。普遍的であろうとすることとは、自らの格率の個別性を相対化して、他者に向かって開き続けようとすることだと言っていいだろう。
この点までは、カント倫理学に含まれている可能性の展開として、そのまま肯けるところである。

嘘の擁護

カントを評価する、まさにその地点で、同時にベンヤミンはカントを批判し、そこから離脱しはじめている。
ベンヤミンはすでにこう言っている。

話し合いにおいては、非暴力的な意見の一致が可能であるばかりか、暴力を原理的に排除しているということが、ある重要な関係から、つまり嘘が罰せられることはないということから、きわめてはっきりと証明されうるのである。おそらく、嘘を根源的に罰する立法は、地上には存在しないだろう。(ベンヤミン「暴力批判論」、p253)

ベンヤミンは、かつては詐欺を罰する法はなかった、法が詐欺を罰しようとし始めたのは、法の力が動揺しはじめたからであって、「道徳的な考慮からでは」ない、と言う。

つまり、法が詐欺に反対するのは、道徳的な考慮からではなく、詐欺が欺かれた者のうちに呼び起こしかねない暴力行為に対する恐怖からなのだ。そのような恐怖は、法の根源に由来する法特有の暴力的本性とは相容れないので、こうした目的は法の正当な手段には不相応である。こうした目的には、法自身の領域の凋落だけではなく、同時に、純粋な手段の衰退も露わになっている。なぜなら、詐欺を禁止することによって、法は、まったく非暴力的な手段の使用を、非暴力的手段が反作用的に暴力を生みだす恐れがあるとの理由で、制約しているからである。(ベンヤミン「暴力批判論」、p254-p255)

嘘や詐欺が、はたしてまったく非暴力的と言えるかどうかについては、ここでは棚上げにしておこう。
カント倫理学を念頭に置けば、ここでベンヤミンがしている嘘の擁護が、いかに反カント的な発想であるかは明らかだ。
カントが定言命法に適うものとしてあげる道徳、まったく無条件に、普遍的な(とカントが考える)道徳として、「嘘の禁止」がある。
ベンヤミンの嘘の擁護はこれに真っ向から対立するものである。

『人間愛から嘘をつく権利と呼ばれるものについて』

カント『人倫の形而上学』(中公・世界の名著)における「嘘」をおさらいしておく。

道徳的存在者としてだけみられた人間の自分自身〔自己の人格のうちなる人間性〕に対する義務の最大の違背は、真実性の反対、つまり嘘である。(カント、p587)
嘘は〔その語の倫理的な意味においては〕、故意の不真実一般であって、それが非難されるべきことを明らかにするには、他人にとって有害である必要はない。というのは、他人に害を及ぼすことが必要だとすれば、嘘は他人の権利の侵害ということになるであろうからである。単なる軽率とか気立てのよさでさえも、嘘の原因となることがあるし、そればかりか、本当に善い目的でさえ、嘘を通して意図されることもありうるのである。しかしそうはいってもやはり、そういう仕方でこの目的を追求することは、単なる形式によっても、自分の人格に対する人間の犯罪であり、人間を自分自身の眼で見て侮蔑すべきものとせずにはおかぬ卑劣な仕口である。(カント、p588-p589)

ボロクソである。 カントは、「嘘も方便」という発想を全否定している。
これに対してベンヤミンの「嘘を根源的に罰する立法は、地上には存在しないだろう」を対置してみれば、それがいかに反カント的なものであるかは一目瞭然である。
カント倫理学は決して現実に妥協しない。嘘をつくなといったって嘘無しには人間の社会は成り立たないのだからしょうがないじゃないか、という意見に妥協してしまったら、規範の意味がない。たとえ実行不可能でも掲げ続けてこそ規範の意味がある、むしろ嘘をつかざるを得ないからこそ嘘をつくなという命令には意味がある、と考えるのがカントである。
これがどのような問題を起こすか、哲学史上たいへん面白い論争が起きたわけだが、時間の節約のために、ネットで見つけた文章を引いておく。

カントにおいて「嘘」が問題になるのは、1797年に書かれた『人間愛から嘘をつく権利と呼ばれるものについて』(Ueber ein vermeintes Recht aus Menschenliebe zu luegen 以下、嘘論文と略記)において、彼が出したある結論のためである。すなわちそこで彼は、自分の家に隠れている友人を人殺しから助けるためにつく嘘さえ、認められないとしているからである。
http://plaza.umin.ac.jp/philia/jessay/ta_resume/tanida1997.html

まさに「もし正義が滅びるならば、人間が地上に生きることはもはや何の価値もない」(カント)。
もちろん、カントはみすみす目の前で人を殺されてもよいと考えているわけではない。こうした状況下では、人は嘘をつかざるを得ないだろう。ただ、それでも嘘は嘘である。それを「しょうがない」と言って正当化してはならない、というのがその趣旨だろう。
こうした規範観は、現代正義論の基本線であり、元防衛相の原爆投下「しょうがない」発言を批判するのも、感情論でない限り原理的にはここに収斂する。
しかし、誰でもすぐに気づくことだが、カントの議論には間抜けなくらいの穴がある。
カントは正直を人命救助より優先するものとしているように見えるが、一方で、自分がウソをついて道徳的非難を浴びたくない一心から、みすみす人が殺されることを見殺しにした場合はどうなるのか(虚栄心から、人を見殺しにしても嘘をつきませんでした、と称賛されたい人だっているかもしれないから)。
この場合カントは『自己愛から人を見殺しにする権利と呼ばれるものについて』という論文を書かなければならなくなるだろう。
人間愛(隣人愛)もしょせんエゴイズムであり、道徳法則に優先してはならない、というのがカントの趣旨であるから、もちろん、単なるエゴイズムは批判されるべきである。
この件、くどくどと書くつもりはない。カントは、諸義務の対立という事態を想定していなかったのではないか、という指摘はすでになされている。
こう考えてみると、ベンヤミンの次の言葉は、カントへの誤解を批判したものではなく、カント自身を批判したものとして読める。

というのも、ある状況にとって正しくて、普遍的に承認することができ、普遍的に妥当する目的も、別の−−たとえ他の点ではどれほど似ていようと、別の−−状況にとっては、そうではないからである。(ベンヤミン、p263)

別のところでベンヤミンは、「カントにとって…緊急権はもはや、そもそも法ではなかった」という、カール・シュミットの言葉を肯定的に引いている(『ドイツ悲劇の根源〈上〉 (ちくま学芸文庫)』p117)。非常事態(例外状態)は、カントの構想する人倫の範囲には含まれていないのだ。
「もし正義が滅びるならば、人間が地上に生きることはもはや何の価値もない」と言うはやさしい。しかし、「嘘」の事例に見られるように、定言命法が新たなジレンマを生みだしている。神々の争いは繰り返されるのだ。

ベンヤミンの問い

さて、省みれば、人を助けるためにウソをつくのは是か非か、という問題は、人命救助という「正しい目的」のために嘘という不正な手段を用いてよいか、とも言いかえられるから、これはベンヤミンが繰り返し語ってきた、目的と手段の対立という問題そのものである。
まさに、ベンヤミンの言う「法的問題は結局のところ決定不能である、という奇異な、さしあたっては意気消沈させるような経験」(p262)である。
この「意気消沈させるような経験」の前では、尺度的正義もいささか使い勝手が悪い。
「ある状況にとって正しくて、普遍的に承認することができ、普遍的に妥当する目的も、別の−−たとえ他の点ではどれほど似ていようと、別の−−状況にとっては、そうではない」としたら、カント的正義論はジレンマを避けられない。
そこに射し込む一条の光=別種の暴力(「暴力とはいえ目的のための合法の手段でも不法の手段でもありえず、そもそも手段としてではなく、むしろなにか別のしかたで目的にかかわるような暴力」岩波文庫版、p54)はあるのだろうか、あるとすればそれは何か。
それが、ベンヤミンの問いなのである。

フランツ・カフカ

長々とカントへの回り道をしたので、ここで別のテクストも見ておきたい。
ベンヤミンは法的暴力の自家中毒ともいうべきジレンマ(これは現代的な言い方をすれば構造的暴力と言ってもよい)を破壊するような「別種の暴力」を要請する。それは「ある決まった目的に手段として関係しているわけではない暴力」であり、顕現としての暴力(宣言としての暴力)である。
そして「そうした顕現が最高度に意味深長なかたちで見出されるのは、何よりもまず、神話のなかである」として、ギリシア神話を引き合いに、顕現としての暴力が境界を措定することによって法措定暴力となることを示し、このような神話的暴力こそ法的暴力の根源的な形態であり、それに対立するものとして神的暴力を呼び出す。
と、要約しても何のことかわからないし、「暴力批判論」を精読しても、法哲学的議論から神話学的議論への飛躍に足がつりそうになる(とくに「運命」でつまずく)。
そこで、神話的暴力を批判する「暴力批判論」とほとんど同じ文章が埋め込まれているカフカ論「フランツ・カフカ」(『ボードレール岩波文庫)の一節を読んでみる。
ベンヤミンは『訴訟』(新潮文庫では『審判』)について次のように言っている。

たしかに法廷は法律書を用いてはいる。だがそれを見ることは、一般人には許されない。「〈…無実の者が断罪されるだけでなく、無知な者も断罪される、というのが、この法廷の在りかたなのだな〉」、とKは推測している。法律や不文律は、太古の世界においては、文字に表記されることがなかった。ひとは知らずにその法を踏みこえて、贖罪をさせられることがありえた。しかし、知らずに贖罪を迫られる者が不運だとしても、贖罪の登場は法の精神からすれば偶然ではなく、運命なのであって、ここでは運命が、その両義性を表出しているわけなのだ。すでにヘルマン・コーエンは、古代の運命観念の簡潔な考察のなかで、「かかる逸脱・離反をひきおこし、引き寄せるものは、どうやら運命秩序そのものである、という洞察が不可避的になる」、と述べていた。Kにたいして訴訟手続きをすすめる法廷も、似たようなものであり、この手続きは一二銅表律の時代よりもはるか昔へ、太古へと、ひとを連れてゆく。成文法の成立は、太古にたいする文明の最初の勝利のひとつだったのだが、このKを取り巻く法廷では、成文法はたしかに法律書のなかにはあるものの、秘密とされていて、この秘密の法に依拠しつつ、太古が、ますます無制限に支配権力を行使している。(「フランツ・カフカ」p13-p14)

運命とは隠された秩序(見ることを許されない法律書、秘密の法)のことなのだ。法維持的暴力でありながら法措定的暴力でもある警察権力の亡霊のような無定型さもこの運命の一側面だろう。
どうもよくわからなかったが、カフカ『訴訟』(『審判』)や『城』の世界を思い浮かべれば、かなり具体的にイメージできる。
しかもベンヤミンはこの、いわゆるカフカ的世界を、よく言われるような現代の官僚機構の問題としてだけではなく、「太古」の問題として捉えている。これは、私には、神意と支配者の恣意と法とが分かちがたく入り交じり、かつそれが秘密にされていたような状態を想定しているのではないか、と思われる。
うろ覚えの『韓非子』によれば、王は自らの真意を隠しておかなければならない、それが支配の術である、という。類似の発想は『論語』にも『老子』にもあった。
神々と英雄との境界が不分明な古代世界では、神意と支配者の恣意と法との区別は付きにくい。法を知らずに法に罰せられることを運命と呼ぶのも、こうしたことを念頭に置けば、なるほどと思える。
神意と恣意と法が不可分であることによる不潔さ、腐敗は、記紀神話の出雲の「国譲り」、ヤマトタケルのクマソ平定の物語にも見てとることができる。そこでは詐術が知恵と呼ばれ、取引(講和)がなされ、その契約に違反した場合は、立場をかえた祟りがある。
現代では、法律は一応公開されている。しかし、その量は膨大で、その構造は複雑で、素人にはその解釈や運用についても含めた全体像を知ることなどできそうにもない。
結局、カフカの描き出す世界と同じことである。K同様、理由がわからずに逮捕され告訴されることはいまでもありうることなのだ(Kは草なぎのイニシャルか)。無制限に支配権力を行使する「太古」は過去のことではない、というわけだ。
だからこそ、神話的暴力を「滅ぼすことが課題」とベンヤミンは言うのだろう(岩波「暴力批判論」p58)。
ただ、ここでアレ?と思うことがある。神話的暴力の例に出されるのは、ことごとく境界侵犯のタブー(=境界の発生)であって、ここに正義と法のジレンマが問題になるような事例は出てこない。
いや、むしろ、正義と法のジレンマがないからこそ、神話的暴力はだめなのだということかもしれない。

直接的暴力の神話的宣言は、より純粋な領域をひらくどころか、法的暴力のもつ漠とした問題性を、その歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として、明確にする。したがって、これを滅ぼすことが課題となる。まさにこの課題こそ、究極において、神話的暴力に停止を命じうる純粋な直接的暴力についての問いを、もういちど提起するのだ。(岩波「暴力批判論」p58-p59)

神話的暴力の(少なくともひとつの)現代的表現がカフカ的世界だとすれば、気は楽になるというものだ。
神的暴力とは、いつまでも訴訟手続きの終わらない法廷を、そしてあの「城」を粉砕する何かだ。
かつて私は、それを「言葉」だと考えた。というよりは、そう解釈することで「暴力批判論」を受けとめようとした。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20051019#1129679520
そこで、引き続き「フランツ・カフカ」から気になる点を読み出したい。
ベンヤミンカフカの「セイレーンたちの沈黙」(岩波文庫短編集では「人魚の沈黙」)という掌編を取り上げている。
カフカの掌編は、オデュセウスとセイレーンのあの有名な対決の場面で、セイレーンは実は誘惑の歌を歌ってはいなかった、という設定である。
ベンヤミンはセイレーンの歌も沈黙も、神話的世界からの誘惑と解釈している。

理性と狡知とをもって神話のなかへ策略が持ち込まれて、神話的暴力はついに制御される。神話へのこの勝利を、童話は伝えている。そして、カフカが伝説に手をそめたとき、かれが書いたのは、弁証法を知るひとたちのための童話だった。かれはそれらの童話にちょっとした手品を組みこんでおいて、そこから、「不十分な、どころか、子どもっぽい手段でさえが、救いに役立つことがある」例証を、拾い上げてみせた。(p19)

オデュセウスのこの策略とは「伝承で語られているあの行為を「見せかけとして、いわばもっぱら盾として、かの女らと神々とに向けて振りかざしたのである」(p19-p20)。
オデュセウスはセイレーンの沈黙を知りつつ、誘惑に耐えてみせるフリをしたというわけだ。

カフカにあっては、セイレーンたちは沈黙しているのだ。もしかするとそのことは、音楽や歌がかれにあっては逃走の表現、あるいは少なくとも、逃走の担保であることの、せいでもあったろうか。(p20)

そして、このあと、ベンヤミンはあの「歌姫ヨゼフィーネ」を引いている。
もう一つ。

正義の名において神話に対抗して提示されうるものは、ほんとうに法なのだろうか? 違う。法学者としてのブケファルスは、法の根源への誠実さを失いはしないが、ただしかれは−−この点にカフカの考えるブケファルスの新しさ、弁護の仕事の新しさがあるのかもしれない−−法を実地に運用することがないように思われる。もはや実地には用いられず、もっぱら勉学されるだけの法、この法こそ、正義の門である。(p57)

童話、歌、勉学…、神話に対抗するものとして挙げられたこの系列に、言葉を並べてもいいかもしれない。

この点に現れているのは次のこと、つまり、暴力にはまったく近づくことのできないほどに非暴力的な、人間の合意の領域が存在し、その領域とは、〈了解〉の本来の領域、すなわち言語にほかならない、ということである。それにもかかわらずのちの時代になってはじめて、特有の凋落過程において、詐欺を処罰するようになったことによって、法的暴力がこの領域のなかに侵入してきたのだった。(ベンヤミン、「暴力批判論」p253-p254)

戒律

しかし、やはり神的暴力を言葉としてだけ語るわけにはいかないのではないか、という躊躇がある。
「暴力批判論」の結論部分を読み直しながら、やはりカントとの対決というモチーフは生きている、と感じたからだ。
以下、思いついたことを羅列する。
神話的暴力への徹底した批判は、社会契約論への批判なのではないか。法措定暴力を殲滅するということは、近代国民国家の否定である。この点でベンヤミンは、カントもそこに位置する社会契約論の系譜を敵に回している。
ベンヤミンが夢見ているものは、法規によらない民主主義社会ではないか、と思う。
「暴力にはまったく近づくことのできないほどに非暴力的な、人間の合意の領域」。
それがどのようなものかはわからない。

したがって、人間による人間の暴力的な殺害の断罪を、戒律から根拠づけるひとびとは、正しくない。戒律は行為する個人や共同体にとっての判決の基準でもなければ、行為の規範でもない。個人や共同体は、それと孤独に対決せねばならず、非常のおりには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ。そういう意味でユダヤ人は、正当防衛の殺人を断罪することをはっきりとしりぞけた。(ベンヤミン、p61)

ベンヤミンの言う「戒律」は、条件抜きの命令である点でカントの定言命法に、「個人や共同体」が、「それと孤独に対決せねばなら」ない点で、また罰則がない点で、尺度的正義に似ている。
しかし、「非常のおりには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ」。
「カントにとって…緊急権はもはや、そもそも法ではなかった」(カール・シュミット)。
尺度的正義のジレンマとは、例外状態における責任のことなのではないか。
これは「救命ボート問題」によく似ているが、功利主義の発想で語られる限り、そこに本当の意味での責任の問題は提起されない。
「しょうがない」という言い訳が一切許されない場面で、生死を賭ける、それは沈みかけた船の上でどうするかという問題ではなく、比喩的に言えば、自由で満ち足りた、誰もが幸福に微笑んでいる平和な社会で、罪もない誰かを殺すかどうか、というような場面が想定されなければならないだろう。
それは案外と現実に起こっていることではないのか(デリダ『死を与える』のモチーフのひとつ)。
この苛烈さは、やはり無視してはならないものだと思う。
しかし一方で、Arisanさんが書いておられる憲法9条の尺度的正義http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070809/p1、これが「理性と狡知とをもって神話のなかへ」持ち込まれた策略、童話に組み込まれた「ちょっとした手品」であり、「不十分な、どころか、子どもっぽい手段でさえが、救いに役立つことがある」例証である可能性も捨てきれない。

生命の神聖さというドグマ

存在がたんなる生命を意味するにすぎないのなら(中略)存在のほうが正しい存在よりも高くにある、という命題は虚偽で下劣だ。けれどもこの命題は、巨大な真理をもふくんでいる、かりに存在が(生命が、というほうがよいが)(中略)「人間」という確たる集合態を意味するものとするならば。そのときにはこの命題は、人間の不在は正しい人間の(むろん、たんなる)未到来よりももっと怖るべきことだ、といおうとしていることになろう。こういう二義性があるから、前記の命題にも、もっともらしさがあるわけだ。(ベンヤミン、p62)

この訳文はやや読みとりにくいので、別の訳者の訳文も引いておく。

存在がたんなる生だけを意味するのであれば(中略)、存在は正しい存在よりも高次のものである、という命題は誤っており、かつ卑劣である。しかしながら、存在が(あるいは、生がと言うほうがよかろうが)−−これらの言葉の二重の意味は、Frieden〔平和、講和〕という言葉の二重の意味にまったく類似しており、それぞれ二つの領域に関係しているということから、解き明かされねばならない−−、〈人間〉という確固たる凝集態を意味するのだとすれば、右の命題は巨大な真理を含んでいることになる。つまりこの命題が、人間の非在は正しい人間の未在(この「未在」には無条件的に、「たんなる」という形容辞が付く)よりも恐ろしいことである、と言おうとしているのだとすれば、である。右の命題が真実めいて見えるのは、この二義性のゆえである。(『ドイツ悲劇の根源〈下〉 (ちくま学芸文庫)』、p274-275)

つまり、「存在のほうが正しい存在よりも高くにある」(「存在は正しい存在よりも高次のものである」)という命題は、「存在がたんなる生命を意味する」のであれば「虚偽で下劣」(「誤っており、かつ卑劣」)である。
しかし、この命題が「人間の不在」(人間の非在)は「正しい人間の未到来」(正しい人間の未在)よりも恐ろしいことだ、と言おうとしているのだとすれば、という条件のもとでは「巨大な真理」を含んでいる。
この「巨大な真理」は、カントの(戯れに言ったのかも知れないが)「もし正義が滅びるならば、人間が地上に生きることはもはや何の価値もない」と対決しているように私には読める。「もし人間が滅びるならば、正義にはもはや何の価値もない」ということなのだ。
私は以前、ベンヤミンには全滅という発想がなかったのではないか、と疑ったがhttp://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20051028#1130511578、このように読み返してみると、それも織り込みずみだったようだ。失礼しました。
しかしその「巨大な真理」は、「生命の神聖さというドグマ」を追認するものではない。

人間というものは、人間のたんなる生命とけっして一致するものではないし、人間のなかのたんなる生命のみならず、人間の状態と特性とをもった何か別のものとも、さらには、とりかえのきかない肉体をもった人格とさえも、一致するものではない。人間がじつにとうといものだとしても(あるいは、地上の生と死と死後の生とをつらぬいて人間のなかに存在する生命が、といってもよいが)、それにしても人間の状態は、また人間の肉体的生命、他人によって傷つけられうる生命は、じつにけちなものである。こういう生命は、動物や植物の生命と、本質的にどんな違いがあるのか? それに、たとえ動植物がとうといとしても、たんなる生命のゆえにとうといとも、生命においてとうといとも、いえはしまい。(ベンヤミン、p62)

「生命の神聖さというドグマ」の根源は、

ヨーロッパの衰弱した伝統が、自分が見失ってしまった聖なる者を宇宙論的に測りがたいもののなかに探し求める、その最後の右往左往を示すものとして、まだ新しいものである。(『ドイツ悲劇の根源 下』、p276)

ベンヤミンが比較的最近生まれたという「生命の神聖さというドグマ」は、まだカントには芽生えていなかったことになる(ここはニーチェも参照したいところだが…)。
ベンヤミンの言うように、「生命の神聖さというドグマ」が、何か、見失われた聖なるもの(神)を回復させようという動機によるものだとすると、生命至上主義の言う「単なる生」とは、実は至上の価値の代名詞−仮象であり、単なる生そのものではないことになる。このあたりが卑劣ということなのだろうか。
しかし、いったい誰が、現実の、単なる生を語り得ているだろうか。単なる生を語ることはできるのか。
さて、これは難問だろう。
「生命の神聖さというドグマ」に対しては「戒律」が対比させられる。

このドグマの新しさがそうした意味をもつのに対して、殺人を禁じるすべての宗教的な戒律の古さには、そのような意味はなにもない。なぜなら、この戒律の根底には、近代的な一般原理の場合とは別の思想があるからだ。(『ドイツ悲劇の根源 下』、p276)

「近代的な一般原理の場合とは別の思想」とは何か。戒律については、「戒律は行為する個人や共同体にとっての判決の基準でもなければ、行為の規範でもない。個人や共同体は、それと孤独に対決せねばならず、非常のおりには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ」と言われていた。
あるいは、ここはかのアブラハムのイサク奉献の物語を思い返すべき箇所かも知れない。サルトルも『とは何か』でふれていた。
確かにふつうのヒューマニズムを基準にしたら理解できない話ではある。
さて、ここが考えどころ、というところで気力がつきた。またいつか読み返すことにしよう。