昨日の記事の捕捉

一昨日、広田照幸の著書を取り上げた際、いわゆる教育問題を誇張して語ることについて揶揄気味に書きましたけれども、これは現実にそうした問題がない、と主張するためではありません。
21日のコメント欄にid:sava95さんが寄せられているような問題をはじめ、さまざまな問題や事件が起こっているのはその通りでしょう。私も教員をやっている知人などからその一端を聞き知ってもいます。

ただ、問題の一つ一つにはそれぞれ異なる原因があるはずであり、その解決がどのようなレベルで図られるべきかということもまた違うでしょう。

また、一つの問題が発生する要因は一つではなく、複数の要因がからんでいることもあるでしょう。

私が広田や苅谷剛彦の著作から学んだことはそういうことです。

例えば、ひところ話題になった小学校の学級崩壊などは、学級集団内の人間関係という要因や、家庭のしつけのあり方とも切り離しては考えられないのに、マスコミの論調は、子どもの変化に対応できない教師の指導力不足だ、というものが強かったように思います。

教師悪玉論に立った議論はさんざんなされてきたのに問題が解決しない以上、その隠れた前提たる子ども性善説や家庭のあり方が問い直されないのは不合理です。
背景として、sava95さんが指摘されているように階層間格差も考えあわせなければなりますまい。
また、問題の核心がどこにあるのか、ということも大事なことのように思います。

例えば、学力低下問題では、先日取り上げた志水の著作『学力を育てる (岩波新書 新赤版 (978))』が示しているように、平均値ではたいして低下しているわけではなく、最近の若い者は勉強しない、というお説教は無意味なわけです。

問題は、そういう十把一絡げな話ではなく、学力の階層間格差が広がっており、社会の共通教養というべきものが期待できなくなっている、という点にあるのでしょう。これは、学力が、家庭の経済力の階層間格差とリンクしているということですから、生徒・学生個々人のやる気(人間力?)の問題や、個々の教師の指導力の問題ではないはずです。

もちろん、すべての人が同じ知識を持つなど不可能ですし、そうあるべきでもないでしょうから、画一教育をすればよいということでもありません。そこで何をこの社会の共通教養として公教育で保証すべきか?ということが問題となり、anntonioさんの問題提起がなされたのだと理解しています。
http://d.hatena.ne.jp/annntonio/20051221

このanntonoさんの問題提起で私にはわかりづらかったのは、共通教養として、市民性の教育でよいのか、なのか、市民性の教育だけでよいのか、なのか、という点です。

コメント欄に書こうとしてグチャグチャやっているうちに長くなってしまったので、ここに書き出しました。一手、御指南いただければ幸いです。