以下、m_bonnieさんへのご返事です。
bonnieさん、コメントを寄せてくださり、ありがとうございました。
まず、私は村上春樹ファンであることを申し上げておきます。高校生のときに『1973年のピンボール (講談社文庫)』を読んで以来、彼の新作が出るたびに追いかけてきました。そのすべてが傑作だとまでは思いませんが、好きな作家の一人であることは間違いありません。
さて、お尋ねの件、うまくお応えできるかどうか、はなはだ不安です。と、申しますのも、bonnieさんのおっしゃる「精神性」という言葉が私には理解できないからです。「霊性」という意味でお使いでしょうか、それとも、いわゆる「感性」という意味でお使いでしょうか。また、「人間として」という言葉も私とは違うニュアンスでお使いのような気もしております。が、とりあえず言葉が足りなかったかな、と思うところを補うつもりで申し上げます。
まず第一に、私も「経済生活の違いによる精神性の格差がどれほどあるのか、考えたことも」ありません。と言いますか、もしbonnieさんが「精神性」という言葉で「霊性」か「個の尊厳」のいずれかのことを考えておられるとしたら、私はそれらに「格差」があるとは考えられません。
私が三浦氏の著書(『下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)』)などを念頭に置いて考えたことは、趣味嗜好というレベルに関わる限りでの感性(生活感覚)についてです。例えば、最近、「もったいない」という言葉が注目されましたが、いったい、金額にしていくらくらいがもったいないと感じるかは人それぞれでしょう(ちなみに私は昼の外食に五百円以上かかるともったいないと感じます)。けれども、人それぞれとは言っても、データを数多く集めると、それは収入や貯蓄額によってある程度の傾向が見られるでしょう。
昼飯に五百円以上は高いと感じる人とランチに三千円以内なら出せるという人では、趣味のために支出する金額も違っているでしょう。例えば、クラッシック音楽をラジオやCDで聴くだけではなく、演奏会に通ったり自分でも楽器演奏を習ったりすることは、昼食は五百円以下という人にとってはかなりの負担です。もちろん、好きな音楽のために節約して演奏会に通うという人もいるでしょうが、やはり収入の多い人に比べれば回数は少なくならざるを得ませんし、そうした人の人数も多くはないでしょう。収入の低い人の多くは、もっと手軽で安価な趣味を身近なものと感じるはずです。
読書は趣味としては安上がりなものの部類ですが、しかし、たくさんある出版物のなかからどれを愛読するかは、やはり小遣いとして使える金額に影響されます。これは単に本の値段の高低だけではありません。書物のなかには、ある程度以上の予備知識を読者に要求するものがあります。その文章で話題とされている事柄の背景を知らないと面白みがわからない、極端な場合は読んでもなにを意味しているのかわからない、ということはありえます。さいわい日本の一般的な書籍の値段はそれほど高くはなく、学術書なども文庫化されていますから、高校卒業程度の国語力があれば、たいていの分野でそれほどお金をかけずに知識を学ぶことは出来るはずですが、しかし、一冊の本を読んで理解するためにはある程度時間をかける必要があります。ここが五百円組にとっては悩ましいところです。おそらくは時給換算で七・八百円程度の収入だろう昼食五百円組にとっては本を読んでいる時間が惜しい、ということは充分ありえることです(私は自営業なので五百円階層のなかでは時間的余裕に恵まれている方です)。生活のために長時間働き、その疲れた頭で勉強することは、出来る人もいますが、多くの人にとっては負担ではないでしょうか。それであれば、予備知識を要求しないような本を読んだ方が楽だ、ということになるのは当然のことです。
旅行などで見聞を広めるということについても同様なことが言えることはもう言葉を重ねる必要はないでしょう。
このように大づかみな傾向として、人々はその属する社会階層によって趣味嗜好などに偏差が見られる、ということ自体は、三浦氏以前に、フランスの社会学者、P・ブルデューが『ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー』で詳しく論じていたことでもあり、決して特殊な意見ではないだろうと思います。もちろん、社会学者たちの分析は一般的な傾向についてであり、現実の個人個人については、それぞれ違いや例外があるというのは当然です。そうした例外があることを前提にした上で、社会学者たちの調査・分析を受け止めることにしております。
さて、その上で「上流とか中流とか下層で人間としてはそんなに格差があるのでしょうか?」というお尋ねにお応えするとすれば、私は経済生活によって「人間として」格差がつくとは主張しておりません、というのが、優等生的な答え方でしょうが、それではつまりませんので、bonnieさんと私がどこですれ違ってしまうのか、について、思ったことを書いておきます。
おそらく、私が「精神性」という言葉についてとまどっているように、bonnieさんは「上流とか中流とか下層」という言葉に引っかかっていらっしゃるのだろうと思います。この上流・中流下流、あるいは上層・中層・下層というのは、あくまでも社会学者たちが分類のために年収・貯蓄額・可処分所得などを基準にして付けたレッテルにすぎないと私は理解しています。レッテルにすぎないけれども、レッテルとしての機能は果たしていますからそれでいいと思っています。このレッテルは、人間の生活スタイル(とくに消費生活)に貼り付けられものであって、その人間の人格に対して貼られているわけではありません。三浦氏の分類によれば、年収が年齢の十倍(×万円)未満の人(私もそうです)は下流社会人なのだそうですが、しかし、人格は収入とはあまり関係がないことは経験の教えるところです。ですから「人間としての上下はない」というのは、まったく同感です。
けれども、生活習慣や、興味・関心の持ち方には、収入はある程度まで影響します。これもまた事実であろうと思い、そこで、これまでもっぱら都市中流市民を主な登場人物として描いてきた村上文学は、今後どのような読まれ方をしていくだろうか、と答えのない疑問を呈したわけです。
おそらくお応えしたことになっていないとは思いますが、長くなりましたので、この辺で。