『論語』ってよくわからない

私にとって『論語』という本はよくわからない本である。
もちろん、注も現代語訳もあるから何が書いてあるか文章の意味がわからないということではない。もっとも大昔の文章なので現在となっては何のことやら意味のわからなくなってしまった単語もあるようだが、それでも文章の大意はわかる。そして全体は、といえば、これは孔子とその弟子たちの言行録であることは今さらいうまでもない。
だが、孔子の教えを発展させたという『孟子』や『荀子』に比べると、なんだか雑然としてとりとめがない。それどころか矛盾すら感じることもある。いったい、二言目には親孝行をしろと説教する葬祭コンサルタントにしか見えぬ孔子が、どうして孟子荀子ほどの思想家に影響を与えたのだか、いまひとつピンとこないというのが正直な感想。
結局『論語』というのは、孔子の弟子たちが亡き師を偲ぶよすがとして編んだ名言集のようなもので、この一冊だけで孔子の思想、儒家の学問がわかるというものではないのだろう。それ以外の部分は、四書五経というのは後の時代のことだから、初期の儒家は口伝によって補っていたのではないだろうか。
そんなことを思ったのは、一見すると矛盾しているように見える次の二つの文言によってである。
「子の曰わく、述べて作らず、信じて古えを好む。」(『論語 (岩波文庫 青202-1)』p127)
これは孔子の伝統尊重、復古主義を述べた言葉として知られるが、一方でこんなことも言っている。

「夏の礼についてわたしは話すことはできるが、〔その子孫である〕杞の国では証拠がたりない。殷の礼についてもわたしは話すことができるが、〔その子孫である〕宋の国でも証拠がたりない。古記録も賢人も十分ではないからである。もし十分ならわたしもそれを証拠にできるのだが。(『論語』p57)

これを読んだとき、「なあにが『述べて作らず』だよ、こら」と呆れたものだ。孔子は古代の夏の礼、殷の礼について話すけれども、それがまさに古代の礼だという証拠はないと自ら告白しているのだ。
夏の礼、殷の礼は孔子にとってどうでもよいものではない。別のところでは「殷は夏の礼に因る、損益する所知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益する所知るべきなり。」(為政)と言い、また「周(の文化)は、夏と殷の二代を参考にして、いかにもはなやかに立派だね。わたしは周に従おう。」(p60)と言う。
「周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ。」(泰伯)とする孔子にとって、夏、殷、周の文化の継承はなによりも尊重すべきものであるはずだろう。それなのに、彼の説く夏・殷の礼について史料不足で証拠がないとなれば、結局、孔子が説いた古代の礼(ひいては政治や道徳)は、言葉通り、かつてあったものを復古したものではなく、孔子がかくあるべしと思ったものを古代に仮託して述べたもの、孔子の思い描く理想を過去に投影して語ったもの、ということになる。
これは、後世の韓非子流のリアリズムからすれば、とんだホラ吹きということになるだろう。孔子復古主義に対する韓非子の批判については以前にメモした。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050715#1124959230
しかし、この程度のことは、二千年以上の伝統のある儒学のなかですでにさんざん議論がつくされていることだろうと思うが、不勉強な私は知らない。
ただ、国の治め方を尋ねられた孔子は「夏の暦を使い、殷のロ(車偏に各)の車に乗り、周のベン(日のしたに免)の冠をつける」(p310)と答えている。無いものを使えとは言わないだろうから、夏の暦、殷の車、周の冠は、孔子の時代にも実在し、また実際に用いられてもいたのだろう。モノがあれば、当然その使い方や作り方も伝えられていたはずだろう。そして、それらの由来についても、なににせよ起源伝説というのは史実とは限らないが、それでもそれなりの伝承もあっただろう。孔子は、文献史料の足りないところは、こうしたモノにまつわる口承なども参考にしながら、古代の礼制を再構成していったのではあるまいか。
まあ、こうしたことも、すでに専門家諸氏がさんざん論じ尽くしていることなのだろうが、なにせ、関連書籍が膨大で、おまけに漢字だらけで難しいときたもんだから、どこから手を付けていいのかもわからず、手をこまねいている状態である。

ちょっと空き時間ができたので加筆

つまり、何が言いたかったかというと、孔子としては、可能な限り残された史料に忠実に古代の礼を再現しようとした。それが「述べて作らず、信じて古えを好む。」という発言になった。だから韓非子のように、バカか詐欺師のどちらかだ、というのは言い過ぎである。
しかし、どんなに残された史料に忠実であっても、すべてが残されているわけではないので、証拠不足を嘆かざるを得ない。証拠不足を正直に嘆いている以上、孔子の誠意は疑えないが、結果は結果である。たとえ、過去を知るための可能な限りのすべての史料があったとしても、それを再構成する現在の視点による制約(あるいは方向付け)は免れ得ないだろう。
だから、罵倒はともかくとして、韓非子の批判はやはり当たっている、と私は思う。「周の徳は、其れ至徳」というのは、孔子が周の治世を完全に再現した上での判断ではなく、むしろ、至徳という評価が先にあって、それなら至徳であった周の時代とはどうだったのだろう、というように過去への関心が導かれた、とまで推測するのは詮索のしすぎだろうか。