博く民に施してよく衆を済う

しつこく『論語』から抜き書き。

子貢(しこう)曰く、もし博(ひろ)く民に施(ほどこ)してよく衆を済(すく)うものあらばいかんぞや。仁と謂うべきか。子曰く、なんぞ仁を事(こと)とせん。必ずや聖か。尭舜(ぎょうしゅん)もそれなおこれを病(や)めり。それ仁者(じんしゃ)はおのれ立たんと欲して人を立て、おのれ達せんと欲して人を達せしむ。よく近く譬(たと)えを取る。仁の方(ほう)と謂うべきのみ。

打つのに疲れたので、http://kanbun.info/keibu/rongo06.htmlより孫引き。岩波文庫版だと、p123-125。
「博く民に施してよく衆を済うもの」は、仁どころか聖というべきなら、孔子管仲の政治をして「仁」と評価したのもなるほどと肯ける。
『管子』に記されていることを好意的に読むならば、管仲は産業振興だけではなく、富の独占を抑制して、財の再分配の均衡を図ったように読める。これは「博く民に施してよく衆を済う」というにふさわしいように思う。
また「仁者はおのれ立たんと欲して人を立て、おのれ達せんと欲して人を達せしむ」というのも、管仲は君主をしのぐ力量を持ち、ひともそれを認めていたほどであるのに、周の天子が上卿の待遇を与えようとしたときにも、自分は陪臣の身であるからと辞退して、あくまで主君の桓公を立てたことがそれに当たるように思う。