『老子』十九章

先日、つまらない思い出話の引き合いに出した『老子』十九章について、t_keiさんより「規範的なものに回収されてしまうことへの批判、という風にも受け取れるんじゃないだろうか」というコメントをいただいた。これを機会に『老子』の読み方について考えてみた。
確かに『老子』は、のちに中華帝国の御用イデオロギーとなった儒教と対立したわけだから、むしろ、t_keiさんのように読む方が妥当かも知れない、とも思う。ただ、いかなる思想も、体制−反体制、という単純な枠では割り切れない契機を持っており、マルクス主義だって社会主義国では国家イデオロギーだったわけだったし、儒家思想も秦帝国下では弾圧された反体制思想だった。
道家の場合はどうか(オヤジギャグ?)。
高祖・劉邦が起って秦帝国を倒し漢を建てた。建国の功臣はあまたいるが、なかでも反秦戦争の参謀役であった張良、建国直後の宰相である蕭何、曹参、陳平の四人は、『史記』を読んでいると、いずれも道家の影響を受けていたフシがある(『史記世家』下、岩波文庫p76-p140)。

留候(張良)は生来病気がちで、道家の特別な呼吸法を行い穀物をとらず、門を閉ざして一年余り外出しなかった。(前掲書、p113)
太史公いわく、陳丞相平は、若いころに、もともと黄帝老子の学問を好んだ。(前掲書、p140)

とくに蕭何と曹参は、劉邦とその妻呂后と同郷で、沛の出身だが、沛という地名は『列子』や『荘子』では老子の滞在したところとして描かれている。
まあ、どなたかのブログに、素人が歴史に首を突っ込むとトンデモ話に引っかかるというご注意があったので憶測は控えるが、漢建国の主力メンバーと道家にはなにやら縁があるらしい。
そのうえ、劉邦の子、文帝(孝文皇帝)の后もまた道家の熱心な支持者であった。文帝の死後、竇太后と呼ばれた彼女は、呂后のような苛烈な粛清をしなかったから悪名は立てられなかったが、儒者を排しており、お陰で竇太后が死ぬまで儒家は国家公認イデオロギーになれなかったほどだ(「竇太后黄帝老子の言葉を愛好したから、帝を始め太子や竇一族の者も黄帝老子を読み、その術を尊重しないわけにはいかなかった。」前掲書、p33)。
つまり、漢初の時代、道家は国家の支配イデオロギーだった。
国家イデオロギーとしての道家思想がどんなものだったか、張良が実行したような後の神仙道につながる不老長生の術も含まれていたろうが、竇太后が好んだ黄老の術とは、韓非が大成した法家思想にも通じる統治の術でもあったという(貝塚茂樹『韓非』講談社など)。だとすると、『老子』の読み方もそれをわきまえておいた方がよいということになる。
そこで、以上のようなことに留意して『老子』第十九章を読むとどうなるか。

聖を絶ち智を棄つれば、民利百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復す。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし。この三者は、もって文にして足らずとなす。故に属する所あらしむ。素を見し樸を抱き、私を少なくし欲を寡くす。

これは、いつもお世話になっている漢文体系からのコピーだが、後半部分には別のバージョンもある。

此の三者、以て文足らずと為す。故に属ぐ所あらしめん。
素を見わし樸を抱け、私を少なくし欲を寡くせよ。学を絶ち憂いを無くせよ。(金谷治老子講談社学術文庫、p71)

文末の「絶学無憂」は次の章句の冒頭とする説もあるようだが、これがあった方が聖智、仁義、功利の三者に対応するので、金谷説に従う。
ともかく厄介なのが、「この三者は、もって文にして足らずとなす。故に属する所あらしむ。」、あるいは「此の三者、以て文足らずと為す。故に属ぐ所あらしめん。」だが、私は次のように解した。すなわち、「(聖智、仁義、功利の)三者を(廃絶すれば世の中まるく治まると)言うだけでは説明不足だろうから、その含意をさらに説こう」と。
さて、この章句はどのような文脈で語られているのだろうか。私は、道家思想も全体としては政治思想であると考えるなら、これはやはり権力者に向かって統治の心構えを説いたもの、と読むべきだろうと思う。以下は私の意訳である。
「啓蒙、道徳、富国などを目指そうとするな。民衆生活にはできるだけ国家が関与せず自由放任にしておいたほうがよい。社会は素朴な状態にしておき、諸個人の私欲を制限し、学問を絶って不満を起こさせないようにせよ。」
私には一種の衆愚政治的な要素を含んでいるようにイメージされる。このような読み方は、背景にある深遠な「道」の思想を顧慮しない浅薄な考えと嗤う方もおられるかも知れない。しかし、「道」の思想がいかに深遠であろうとも、政策として行われることは変わらない。
漢初において道家的な政治が行われ、それが民衆の支持も得ていたのは、秦の武力による中国統一とドラスティックな制度改革・思想統制、これに反発して起きた反秦戦争、戦後処理をめぐる項羽と劉邦の対立によって起こった楚漢抗争、と、短い期間に戦乱が打ち続いたため、権力者はおとなしくしてくれているのがいちばん、まずは平和を、という風潮があったためではないだろうか。
司馬遷は曹参の政治を評して次のように言う。

参は漢の相国となって清静を重んじ、それこそ完全に道家の本質に合致するものと考えた。しかも人民は秦の残酷な政治を経過した後であり、参は彼らとともに休息し自然にまかせた。それゆえに天下の人びとはみなその美徳をたたえたのである。(『史記世家』下、岩波文庫、p97-p98)

後世、仏教の刺激を受けて形而上学的な解釈を施される「道」の思想も、それが流行した当初は、まずはこのような、いわば休息の政治思想であったように私には感じられる。
まあ、確かに休みは必要だ。『老子』はこの後の章句、第二十章で、休息の思想のメンタリティを語っているように見える。

付記・ t_keiさんへ

id:t_keiさん、コメントありがとうございます。お疲れのご様子、どうか十分休息してください。僕も今日はかなり体調が悪く(昨日、ずいぶんゆっくりしたのですが)、グロッキーです。人と会う約束があってこれから出かけなければならないのですが、ちょっとご挨拶だけして帰ってこようかと思います。
それにしても僕の駄文をt_keiさんがあんまりにも好意的に解釈してくださるので、照れくさいったらありゃしません(ほめ殺し?)。ベルクソンもふと思い出して書き留めただけで、ただの連想です。でも、t_keiさんのような方にそういわれてみると関係があるような気がしてくるから不思議ですねえ。
それから、t_keiさんのおっしゃるように、『老子』そのものには、形而上学的な内省も多いに含まれていると思うのです。ただ、それをあまりに重視するとおかしな解釈になってしまいはしないか。たとえば、張鍾元は前に引いた『老子』一九章を評するに、西田幾多郎善の研究』を持ち出して次のように言います。

老子のいうように、識別と知識、慈善と道義、利口と利益はこれと同じように捨てなければならない。これら外的な工夫では本物や、宇宙それ自身の大いなる憐れみといった深い平和に達することはできない。一度これらの人為的道徳の教えから解放されると、主体と客体、真の自己と宇宙は同一になるということが理解される。(張鍾元『老子の思想』、p119)

一般論として、個人の内心の平和、平常心のようなものについては、そういえるかも知れませんが、ちょっと深読みのし過ぎではないかと思います。そんなことが頭にあったので、あえて政治思想として読んでみました。