続・情けは人のためならず

t_keiさんから難しいコメントを頂戴したので、先日の「情けは人のためならず」と題した記事について捕捉します。説明になっていないと思いますが、この程度でご勘弁ください。
「情けは人のためならず」という諺を「(他人に)情けをかけるのは他人のためにならない」という意味だと思っている人が案外多い、というようなニュースを目にしたことがありますが、ここでは「(他人に)情けをかけるのは他人のためではなく自分のためである」という辞書的な意味で考えています。
「情けは人のためならず」をルソー流に翻案すれば、憐れみの感情は自己愛の満足のためである、となる。もっともこの諺は、ルソーのような露悪的な反省からではなく、慈悲は自分の功徳のためであって何かをしてあげたなどと恩着せがましい態度をとるものではない、という戒めとして、おそらく仏教僧の側から出てきたものでしょう(近世文化史に詳しい方がいたらご教示下さい)。
ところで、この「情け」が孟子の考えたような自然な反応であれば、わざわざ戒める必要など何もありません。それが自然的反応であれば、善いことをしたつもりでもそれは自分の利己心のためなんだ、なんてくよくよ悩む必要はないからです。諺のような戒めが必要になったのは、情けとか憐れみには単なる自然的反応ではない何かがあるからではないか、そんなふうにも思いました。
そこで「大道廃れて仁義あり…」という『老子』の言葉を思い出したのです。『老子』の文言はどう読むかでずいぶんとニュアンスが変わってきますが、私は、人間の自然なあり方が失われたからこそそれを補完するものとして仁義礼孝忠などの道徳規範が言われるようになったのだ、というような意味だとして読みました。老子は善き自然は見失われてしまっている、と考えていたと思います。
しかし、こうしてみると、老子孟子はともにルソーと同じく、自然状態を善きものとして考えていることになる。ただし、孟子とルソーがともに善き自然は発露するけれども、それは一瞬の閃きのようなもので、教育によって育て文化や法制度に定着させなければ実効的ではない、と考えていたのに対して、老子は文化的なもの一般が善き自然を疎外しているとした点で、ロマン主義的にはよりラディカルかも知れません。
このように言うことは恣意的な解釈かも知れませんが、ただ、大きな枠組みで見ればいずれも性善説にたって善き自然の回復を唱えていることは間違いないだろうと思います。だから、孟子やルソーに老子を対置して、なにか気のきいた皮肉を言ったつもりになるわけにはいかない、と気がついて、あんな中途半端な終わり方をしたのでした。
老子』十九「聖を絶ち智を棄つれば…」の章句については、昨日は思い出話にふけっただけなので、またあらためて書きます。