教育基本法は理想を語るべきか?

kmizusawaさんが面白いことをおっしゃっているのに注目。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060412/p1
この記事では、愚民化促進委員会案について、次のように評しています。

のっけから「我が国の誇りある文化を受け継ぎ発展させ、人類社会に貢献する」とか「我が国の豊かな伝統と文化に立脚する新しい教育の意義」とか「家庭、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成」とか「あらゆる段階において、伝統と文化の尊重、愛国心の涵養及び道徳性の育成」とかいった言葉が出てくる改正案はその存在意義からして意味不明だ。まあそういうのを身につけるのが、よりよく生きていくための力をつけることであると考える人もいるのだろうし、そういう人はそのための教育を受ける権利はあるだろうけど、すべての人にこれを適用しちゃうのはどうかと。

そして返す刀で、現行法もバッサリ。

まーそれ言ったら、現行法の「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」とかいうのもかなりウザいけどな。

私はその通りだと思います。あ、いや、「とかいうのもかなりウザいけどな」というkmizusawaさんの言い回しのニュアンスを正確に理解しているわけではないので、便乗的な言い方をするのはやめておきます。その通り、ではなく、この指摘を読んで次のようなことを思いました。

望ましい国民像は要らないのでは

上に引いたkmizusawaさんの記事で注意が喚起されている現行法の文言、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」は、明らかに望ましい国民像を描いています。これは現行の教育基本法の起草者にとって望ましい国民像と考えられたものです。どれも悪いことではないでしょう。このような人がいたら尊敬に値します。
けれども、私はこのような人ではない。文学や演劇などの非真理を愛し(ホラーやオカルトのファンなので虚構と背徳を愛しているわけですし)、むかっ腹が立てば個人の価値など気にせずに怒鳴り飛ばし、怠惰で無責任で、妻に依存しながら心身ともに不健康な暮らしを送っています。だから「すべての人にこれを適用しちゃうのはどうか」どころか、私ははなはだ困ったことになる。
こんなダメ人間のことはどうでもよいとしても、例えば次のような点はどうでしょうか。
「真理と正義」というのは、教育や学問はどうしてもなんらかの意味での「ただしさ」を持ち出さなければならないので不可欠の要素でしょう。しかし「愛」とまで言ってよいのか。教育者や学者が学問への愛を抱き、また、それを後進の生徒・学生に伝えることはあってよいことでしょう。けれどもそうした愛情をもてない人も結構いるはずです。
「どっちにせよ、愛なんてごく自然に湧いてくるものであって」(by.id:terracaoさん)であるならば、「国」も「郷土」も「真理と正義」も同じように、法によって愛の対象と定めることには無理があるはずです。
「個人の価値」、「勤労と責任」、「自主的精神」、「心身ともに健康」、そして「国民」というものも、それぞれケース・バイ・ケースで、あまり強調しすぎると、そこからはみ出てしまう人には息苦しくてかなわないことになります。
たとえその内容がどうであろうと、政府が国法で望ましい人間像を規定すること自体、余計なお節介である、と私には思われるのです。これを不問にすることは「伝統と文化を尊重し、それらを育(はぐく)んできた国及び郷土を愛する」をよしとする考え方と基本的にはかわらないことになるのではないでしょうか。
法律なんだから、もっとドライであっていい、そう思う私ですが、現行法の「個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」に比べると、促進委員会案の「共同体とのかかわりの中で人格を陶冶し、家庭、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成」「あらゆる段階において、伝統と文化の尊重、愛国心の涵養及び道徳性の育成」は、あまりといえばあまりな代物であり、また、法改正の理由もトンデモな話ばかりですから、現状におけるよりマシな選択として、現行法の保守を支持し、改悪に反対するものです。