伝統についてなのですが…。

中年オヤジにふさわしく仏教書などを読んでいると、各宗の祖師はそれぞれに教相判釈(?)をしていますよね。それによって、釈尊以来の歴史のなかでの自己の正統性を主張します。我こそは釈尊の法の正統な継承者であるというように(でも実際は選択的継承ですが)。
うろおぼえですが世阿弥の『風姿花伝』の冒頭にも、自らの芸が過去の優れた芸を継承してきたものだというように、正統性を主張している箇所があったような記憶があります。
伝統に無自覚に依拠した考え方を批判するときに、政治家や流行評論家の言うところの「伝統」は近代の産物で云々、という批判はすぐにでも思いつくし、たいていそれで当たっているのですが、自らの正統性を主張するために過去の文化の継承を言う言説は、何も近代だけの専売特許ではなく、近世以前にもあった。記紀神話だって王権の正統性を言うために編纂された。
他にもいくらでも例は挙がるでしょう。だとすると、伝統を盾にとる意見に対して、「それは近代の産物」という決まり文句を投げかけるだけでは、今ひとつ物足りない。これはちょっと考えておくべき事柄ではないかと思うのです。
継承の正統性をもって自説の優位を主張する言説の意味について、もう少し長いスパンで考えられないか。