浮かれた主張について

最近、体調不良と気力減退で、ろくに本を読んでおりません。
思いつきを書き留めておきたいので、過誤を恐れず書き出していきます。
かつて、満州国を舞台に五族協和の王道楽土を作り出そうとした革新官僚と呼ばれる人々がいました。岸信介もその一人だったかと思います。
岸はともかくとして、革新官僚のなかには善意にあふれ、才覚に富み、仕事に真摯に取り組んだ人もいたでしょう(フィクションですが、本宮ひろ志国が燃える』の主人公など)。実現しなかった彼らの国家構想のいくつかのうちには、理想主義的な側面をもったプランもあっただろうと推測します。
しかしながら、いかにすぐれたものであっても、その構想の前提たる満州国が策謀と武力によって成立した傀儡国家だという事情がある以上、五族協和も王道楽土も、欺瞞でしかありません。
これは、現代でいえば、イラクに自由と民主主義を、というブッシュ政権の政策の嘘くささと同じようなものです。
エリートによる浅薄な善意、あるいは自らの欺瞞に気づかない幼稚さ。たとえそれが演じられたものであったとしても、やはり幼稚です。悪戯の明白な証拠を前にして「でもボクはしらないもん」と言い張るわけですから。
確信はありません。
ただ、ごく一般論としてですが、例えば「感情的には受け入れがたいが、論理的にはこうなのだ」とか「古い習慣にはなじまないが、真理はこうだ」などの紋切り型の口上を多用する人、ときには「甘っちょろいヒューマニズムを捨てて大人の判断をしよう」とか「理念ではなく現実を見よ」などと言う人は、たいていの場合(保守系の論者に多く見られますが)、自分自身の幼児性が露見することに恐れを抱いている、ということはあります。
大人であることにウンザリするくらい大人である人間は、自分が大人であることを強調しないものです。

一般論と言うより、根拠のない漠然とした経験則ですね、ともあれこんなことをふと思ったりしながら暮らしています。

追記

読み返してみたら、おじさんになりたてなのに、年寄り臭いことを言う自分のことを棚上げにして言うのも変な話ですね。
ま、自分の幼児性くらいは自覚しているつもりでちゅ。