救命ボート問題

以前、非論理的な前置きだけをだらだらとメモした「姥捨山論争」について、火付け役のx0000000000さんが、別のアプローチから一つの見解を示された。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070517/1179380587
x0000000000さんの最初の問題提起は、私たちは誰でもなにがしかは他人を見殺しにして生きている、ということを前提に、しかし、その言い訳に仕方がなかったと言うのはやめよう、ということだったように私は受けとめた。
x0000000000さんは、今度は逆方向から迫ってきている。どうにも仕方のない状況を前提に倫理を考えたフリをするのはやめよう、というわけだ。
ちょっと見には、なんだ話が違うんじゃないか、という気もしたが、よく考えてみるとつながっている。
私たちは誰でもなにがしかは他人を見殺しにして生きている
これは日常意識の上では「仕方のないこと」だが、それを宿命論的な意味での必然であるようにイメージして主張するとおかしなことになる(倫理的な問いを封殺してしまう)。
実際は、見殺しにしない行動も取り得たのに、それは不可能だった、という言い訳は欺瞞である。
他方で、誰かを見殺しにせざるを得ない状況を仮構して、そこで倫理問題を提起するのも矛盾している。
本当に「仕方のないこと」であれば、それはやはり仕方がないのだ。ただし、ここで言う「仕方がない」とは、倫理的に問う(応える)意味がないということであって、具体的に選択された行為を正当化したり否定したりすることではない。
しかし、たいていの場合は、ありえる選択肢を無視するなど条件を狭めたりしなければ、どうにかなりそうなことの方が多い。私たちのほとんどは救命ボートに乗り合わせているわけではない。
だから、私たちが他人を見殺しにして生きている状況を批判することに意味はある。
けれども、個々人の具体的な個別の状況によっては、別のファクター(道具、協力者、体力、知識、技術、資産、組織・制度、機会など)があれば誰かを見殺しにせずにすみそうなことでも、その時、その場では個人にはどうにも出来ないように思える場面や経験もあるだろう(私見では、救命ボート問題はこうした経験を誇張したカリカチュアである)。
それならば、誰かを見殺しにしなければならないような状況を回避する方向を目ざして考えるようにすればよい。
誰かを見殺しにせずにすむような状況を作り出そうと努力することには倫理的な価値がある、ということになる。

Myブログ軍師の意見

x0000000000さんの意見を僕が正確に理解しているかどうか自信はないけれども、yブログ軍師がこう言っているので、まあいいやということにしておこう。

t-hirosakaさんが『救命ボート問題』についてブログを書こうとしたらMyブログ軍師にこう言われました
諸葛亮曰く
「成る程、『救命ボート問題』とは妙案ですな。
ホットエントリー間違いなしです!」