破壊的性格2

ちょっと脱線したので、昨日の記事の補足です。
ベンヤミンは、「破壊者のイメージ」を形容するのに、なぜ「ディオニュソス的」ではなく「アポロ的」という語を選んだのか。
消極的な理由としては、先に述べたように、ディオニュソス的な熱狂がナチスのイメージと重なるからなのかもしれない、と想像することはできる。しかし。それだけでは足りない。
アポロは造形芸術の象徴であり「節度ある限定、狂暴な激情からのあの自由、造形家神の英知にみちたあの安らかさ」と形容される(ニーチェ、p11)。一見、破壊とは縁のないように見える。
しかし、アポロ的なるものには次のような側面もある。

いかなる場合でも、アポロ的文化のこの作用がまっ先に手をつけることは、巨人国を転覆させること、荒ぶる神々を殺害すること、まずこのことである。そして世界観の恐るべき深淵と、苦悩の敏感な感受能力を徹底的に克服してしまうためには、たのもしい妄想によるかずかずの眩惑と、喜びにあふれた幻影の群れのたすけを必要とするのである。(ニーチェ、p23)

ここには容赦なく破壊するアポロの姿が描かれている。「ギリシア的晴朗さ」とは、観光案内のパンフレットに掲載されている海と青空の写真のようなものではない。アポロは無慈悲に焼き尽くす太陽神でもある。灼熱の陽光にイカロスは墜落する。
人々を熱狂させる薄暗がりに無慈悲なまでの光を浴びせ、徹底して醒めていること。これは理性的なようでいて、その実、ある種の狂気をはらんでいる。
この理性的な狂気というのは、特別なものではない。造形作家が作品の出来映えを検討するとき、これはダメだ、修正してもうまくいかない、という判断をあくまで冷静に行いながら、しかし、画家がカンバスを破き、陶芸家が失敗作をたたき割るその一瞬は、はたから見れば狂気の行動である。
「世界は破壊されるに値いするか」という問いは、自作の出来映えを鑑定している造形家が、これでよいのか、と自問しているようなものとして理解される(ここでは誤って傑作を破棄したり、駄作を出品したりするような粗忽者は度外視)。
ところで、この「世界は破壊されるに値いするか」という問いが「世界は維持されるに値するか」という問いの、反語的表現なのか、アンチテーゼなのか、アレゴリーなのか、はたしていずれなのか、いまの私には決めかねる。
もっともアレゴリーだとしたら「破壊的性格」が描き出すキャラクター自体が、世界という舞台における一つの寓意ということになるだろう。
ちなみに、ベンヤミンは「本来の見せる場面、これだけを舞台にのせるべきである。つまり、アレゴリー的人物を。たいていの者は、自分のまわりにただアレゴリー的人物だけを見るのだ。子供たちは希望であり、少女たちは望み、願いなのである」というノヴァーリスの言葉を肯定的に引用している(『ドイツ悲劇の根源』邦訳下巻、p81)。
そうだとすると、「破壊的性格」の意味は、ベンヤミンが世界という舞台をいかなるものとみなしていたか、彼の歴史観との関係からも考えてみなければならないだろう。
これについては「破壊的性格」だけではどうにもならないので、あとでまた考える。