フッサール『危機』メモ、第一節〜第四節

もうすっかり頭が呆けているので今さら無茶かもしれないけれど、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』をしばらくの間、少しだけ、かつ少しずつ読んでみることにした。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

学生時代にこの本を習った先生による参考書を引っ張り出すこともなく、素人の感想をつづるだけなので、誤りがあったら優しく教えてください。

第一節

本書の題目はフッサールが抱く学問の在り方についての危機感の表明である。
私は学問の場から離れてずいぶんたつので、こうした危機感が今も学問の現場にあるのかどうか見当がつかない。
私にとっての危機感は、今月の家計がピンチとか、仕事のスケジュールが狂って納期目前でピンチとか、繁忙期なのに夫婦そろって風邪を引いてピンチとか、そういう下世話なことにすぎない。
いや、そもそも、フッサールの時代にも、彼の抱いた危機感が学者たちに広く共有されていたわけではないらしいことは「題目そのものからしてすでに異論を喚び起こすであろうことを、私は覚悟しておかねばなるまい」と言っていることからもわかる。

学問の危機という以上は、少なくともその真の学問性、すなわち学問がみずからの課題を設定し、その課題をはたすための方法論を形成してきたその仕方の全体が疑問になった、という意味であろう。そのようなことは、なるほど哲学についてなら言えるかもしれない。たしかに哲学は現在、懐疑や非合理主義や神秘主義に屈服しそうになっている。心理学がいまなお哲学的要求をかかげ、単なる実証科学の一つにとどまるまいとしているかぎりではそれにも同じことが、当てはまるかもしれない。だが、だからといって、いきなり、しかも大まじめに学問一般や、したがってまた実証諸科学の危機などといった言い方をすることがどうしてできようか。(p15-16)

きっとこういう反論がくるだろう、とフッサールは予測しているわけだ。
これは学問、とくに実証科学の側からの反論を想定したものだろうが、フッサール自身の意見も含まれているような気がする。「哲学は現在、懐疑や非合理主義や神秘主義に屈服しそうになっている」とか「心理学がいまなお哲学的要求をかかげ、単なる実証科学の一つにとどまるまいとしている」ことを問題視しているのは、彼自身の見解だろうと思う。

第二節

フッサールは実証科学が着々と成果を挙げていることを認めた上で、しかし「学問に対する一般的な評価の転換」が現れたという。それは
「学問の学問性にかかわるものではなく、むしろ学問一般が、人間の生存にとってなにを意味してきたか、またなにを意味することができるか、という点にかかわる」という。

一九世紀の後半には、近代人の世界観全体が、もっぱら実証科学によって徹底的に規定され、また実証科学に負う「繁栄」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性たるや、真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらさせるほどのものであった。単なる事実学は、単なる事実人をしかつくらない。このような傾向に対する一般的な評価の転換は、特に〔第一次大〕戦後避けることのできないものとなったが、われわれも知るように、それが若い世代のうちに、次第にこのような傾向に対する敵意に満ちた気分を惹き起こすまでになった。この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれないということを、われわれはよく耳にする。(p20)

実学の「このような傾向に対する敵意に満ちた気分」は、老フッサール自身のものではないだろう。彼はそれが「若い世代のうちに」惹起しているのを知った。そして「この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれない」という不満を耳にしたのである。
フッサールは、その気分に同調したり、その不満に直接応えようとしたりするわけではない。ただ、次の点を指摘する。

この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な転回にゆだねられている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除してしまうのだ。その問題というのは、この人間の生存に意味があるのか、それともないのかという問いである。

実証科学といえば、まず第一に自然科学のことだけれども、事情は「歴史性の地平における人間を考察する精神諸科学」、歴史学に代表される人文諸科学についても同じである。

もし諸科学がこのように、客観的に確定しうるものだけを真理と認めるのだとしたら、また歴史の教えるのが、〈中略〉いつも理性が無意味に転じ、善行がわざわいになるというようなことだけなのだとしたら、世界と世界に生きる人間の存在は、はたして本当に意味をもちうるものであろうか。われわれはこうしたことに満足できるものであろうか。歴史的出来事が、幻想にすぎない高揚と、苦い幻滅のたえまない連鎖以外のなにものでもないような、そういう世界ではたしてわれわれは生きてゆくことができるものであろうか。(p21)

うっかりすると、これを語っているフッサールが七〇代の老碩学であることを忘れてしまうような若々しい響きをもつ問いかけである。これはフッサール自身の問いなのだろうか、それとも孫のような若い世代の問いを受けとめたものなのだろうか。

第三節

まだ人間への問いと内的な連関をもっていたあいだ、学問はルネサンス以来まったく新たに形成されたヨーロッパ的人間に対して、ある意味を要求することができた。いな、われわれの知るところでは、学問はこの人間性の再建に対して指導的な意味をさえ要求しえたのである。学問がなぜこの指導性を失ったのか、なぜ事情が本質的に変わって、学問の理念が実証主義的に限局されるようになったのか、このことをいっそう深い動機にまで追求しつつ理解することが、この講演の意図にとって重要な意味をもつ。(p22)

「学問がなぜこの指導性を失ったのか」これがフッサール自身の問いであろう。少なくとも、問いの端緒である。
学問が「まだ人間への問いと内的な連関をもっていたあいだ」とは、ルネサンスから近代の前半までを想定しているようだ。その時期には、学問は人間性(ヨーロッパ的人間性)に対して指導性をもっていた、とフッサールはいう。
ルネサンスは、いうまでもなく古代ギリシアを模範とした文化復興運動である。では「ルネサンス人は、なにを古代人の本質としてとらえているのであろうか」。

ルネサンスを指導していた理想としての古代人は、自由な理性の洞察によって、自己を形成する人間なのである。この復興された「プラトン主義」にとっては、自己自身を倫理的に形成するだけではなく、人間の環境全体を、すなわち人間の政治的、社会的な存在を、自由な理性にもとづいて、普遍的哲学のもつ洞察にもとづいて、新たに形成する必要があるということも、その自己形成のうちにふくまれているのである。(p23)

さらにフッサールは次の点を強調する。

古代人から受け継がれたこの哲学の理念は、〈中略〉近代の最初の数世紀間は、型どおりにいっさいを包含する学、すなわち存在者全体の学という意味を保持している。〈中略〉普遍性の意味を大胆に、過度とも言えるほどに高揚することはすでにデカルトからはじまるが、そうすることによって、この新たな哲学は、一つの理論体系の統一のうちに、およそ意味のあるすべての問題を、厳密に学的な仕方で包摂しようと努めるのである。(p24)

ところが、現代の実証主義的な学問の理念は、形而上学のうちにふくまれていたさまざまな問題をふり落としてしまっている。そして、フッサールの見るところ、現代の学問から「除外されることになった問題はすべて」「理性の問題」だという点で共通している。フッサールが挙げている「理性の問題」の中には、歴史の意味、世界の意味、など、前節で提起された問題が含まれている。

これらすべての「形而上学的」問題は、これを広く解すれば、通常の言い方における特に哲学的な問題ということになろうが、それは単なる事実の全体としての世界を越えている。これらの問題は、まさしく理性という理念を含意している問題であるからこそ、事実としての世界を越えるのである。(p25)

こうして形而上学は一切の事実学の上位にあるものとして期待された。しかし、諸学の女王としての形而上学の権威は、近代化の進展とともに引き下げられていく。それはなぜか。

第四節

あの高邁な精神によって満たされ、祝福されていたこの新たな人間性が永く存続しえなかったとすれば、それはほかでもない、その人間が、みずからの理想とする普遍的哲学と新たな方法の有効性に対する生きいきとした信頼を喪失したためだろう。そして実際そのとおり事は進行した。この方法が確かな成果をあげえたのは、実証科学においてだけだということが明らかになったのである。(p28)

こうして、普遍的な理性の学、すべての問題に、今すぐは答えられないとしても、やがてはすべてを解決するだろうと期待された普遍的哲学の構想は挫折した。哲学者たち自身のうちにも、「ますます切迫した挫折感が生じてきたのだ」。

そのうえ彼らにあってはその挫折感は、まったく解明されてはいないが、きわめて深い動機から生じたのであり、その動機がいままで支配してきた哲学の理想のもつ確固とした自明性に、ますます声高に抗議するようになったのである。こうしていまや、数世紀にもおよぶ挫折の真の根拠の明確な自己理解に迫らんとする、ヒュームやカントから現代にいたる、永い情熱的な苦闘の時がくることになる。むろん苦闘とは言っても、それはほんのわずかな適任者や選ばれた人たちのあいだでなされただけであって、その他の大多数の者は、自分をも読者をも安心させるような常套句をてっとりばやく見つけたし、いまも見つけつつあるのだ。(p29)

このようにフッサールは、理性による普遍学の構想はなぜ挫折したか、という問いを最初に据える。
これは第二節にある「事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれない」という「若い世代」の「敵意に満ちた気分」に直接応えるものではない(あるいはそれをしたのはハイデガーかもしれない)。「世界と世界に生きる人間の存在は、はたして本当に意味をもちうるものであろうか」という問いにも、その切迫性からすると、遠回りな行き方であるようにも思える。
それでもなお、かくの如く問うのがフッサールの学風というものなのだろう。