建国の精神?

昨日は建国記念日ということで、八木秀次氏の『「建国の精神」に立ち返ろう』と題されたコラムを見る。
id:toldさんに「揚げ足とりはいけません」とまた叱られるかもしれないが、なんとなく悪戯心を誘う文章である。そういう意味では八木氏の文章は魅力的なのかもしれない。
八木氏は「わが国の場合の「建国の精神」とは何だろうか」と問い、次のように言う。

古事記』『日本書紀』の伝えるところによれば、神武天皇橿原宮で即位されたことをもってわが国の建国とするが、独立宣言によってアメリカの「国のかたち」が確立したということができないのと同じように、日本の場合も神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い。

古事記』・『日本書紀』の伝える神武天皇即位の記事に「建国の精神」を(完全には)見出すことはできない、ということだろう。
そして、

 最近の研究によれば、対外的な危機を経て国家としての自立を示すために生み出された「日本」という国号や「天皇」という君主号が固まった天武天皇持統天皇の時代、すなわち7世紀の終わり辺りに日本の「国のかたち」がようやく固まったと見るようだ。

としている。
つまり、現代から回顧的に「建国の精神」を求めるなら、「7世紀の終わり辺り」が目安になるに、ということだろう。
是非は別として、ここまではわからない話でもない。
わけがわからなくなるのは、この後である。
古事記』・『日本書紀』の伝える神武天皇即位の記事に「建国の精神」を見出すことはできない、この「国のかたち」が固まったのは7世紀の終わり頃「天武天皇持統天皇の時代」だ、というのであれば、天武天皇持統天皇の事績に「建国の精神」の原点を見出すというのが、順当というものではないだろうか?
ところが、八木氏の文章は次のように続く。

 では、そこで固まった「国のかたち」、言い換えれば「建国の精神」とは何だろうか。

 本居宣長が発見し、明治の帝国憲法を起草した井上毅が再発見した『古事記』の「出雲の国の国譲り」の神話に示される、天皇統治は個人や一族の利益のために行われるものではなく優れて公共性を帯びたものであることを明らかにした「しらす」という統治理念。

「では、そこで固まった「国のかたち」」の「そこ」という代名詞は、「天武天皇持統天皇の時代、すなわち7世紀の終わり辺り」を指すはずである。「7世紀の終わり辺り」に固まった「建国の精神」が、どうして「『古事記』の「出雲の国の国譲り」の神話に示される」のか、理解に苦しまない人がいるのだろうか?
「出雲の国の国譲り」は天孫降臨のときの話だから、「神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い」という八木氏が、神武天皇即位前の「「出雲の国の国譲り」の神話」に、どうやって「建国の精神」を見出せるというのだろう?
続いて八木氏は次のように言う。

 世界を家族的情愛でもって統治しようという神武天皇の「八紘一宇」の理想。豪族の私的支配を戒め、天皇を中心に国がまとまることを示した聖徳太子の十七条憲法。豪族のみならず皇族の土地まで没収した大化の改新から始まる「公地公民」。またそこにおける「天皇」という無私の地位…。

「世界を家族的情愛でもって統治しようという神武天皇の「八紘一宇」の理想」…?
そもそも「八紘一宇」とは、近代になってから田中智学が『日本書紀』にある「八紘而為宇」という文言をヒントに作った造語である。それに、繰り返すが「神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い」と言ったのは八木氏本人ではなかったか。
さらに、聖徳太子の十七条憲法は六〇四年、大化改新は六四六年、いずれも「天武天皇持統天皇の時代、すなわち7世紀の終わり辺り」以前のことだ。六〇四年を「7世紀の終わり辺り」と考えたら、七世紀の初め頃とはいったい何時のことだかわからなくなる。
もっとも、こうした矛盾を一挙に解決する方法がある。
それは、『古事記』も『日本書紀』も天武天皇の発案で編纂された書物であるから両書に記載された事柄はすべて天武政権の政策理念を反映しているのだ、と言い抜けることである。
そしてこれは、単なる言い訳ではなく、かなりの説得力を持つ仮説でもあろう。
しかし、それならば、どうして「神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い」などという断り書きをつけたのか理解に苦しむ。
それとも八木氏は、記紀以外に、神武天皇即位の事績を記録した信頼できる史料を見たとでもいうのだろうか?(新しい歴史教科書?)
歴史学界がひっくり返るようなお宝的史料でも出てこない限り、神武天皇とは(モデルになった人物が実在したかどうかは別として)記紀の作者が王朝の始祖として想定した人物、という以上のことは言えない。つまり、神武天皇については記紀を離れて語ることはできない。
だから「神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い」というときの「神武天皇」とは、どうしても記紀の登場人物としての神武天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)のことでなければならない。
そうすると、「神武天皇のご即位」とは、やはり記紀中の神武天皇即位の記事のことでしかなくなり、それなら記紀神武天皇の事績に天武政権の「建国の精神」が投影されていると見なしてもいいはずなのに、くどいようだが八木氏は「神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い」と言うのだ。
それでも、あえて神武天皇即位の時点では「完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い」と言うなら、それ以前の「「出雲の国の国譲り」の神話」を引き合いに出すのは、やはりおかしなことだし、ましてや八紘一宇を持ち出すのはどこから見ても悪い冗談としか思えない(それが『日本書紀』の「八紘而為宇」のことだとしてもおかしいし、近代になって改作された八紘一宇のことだとしたらなおさら)。
「7世紀の終わり辺りに日本の「国のかたち」がようやく固まったと見る」最近の研究を踏まえて、というのであれば、素直に、天武政権が正統性を主張するためのテスタメントとして記紀を解釈すればすむことなのに、どうしてそうしないのか。
いちばんわけがわからないのは、これほどまでに歴史にいい加減な人が、歴史教育の重要性を訴えたり、歴史教科書の編集に関わったりしていることである。