キルケゴールにとってのフォイエルバッハ

ふと思いついたことがあって、学生時代にお世話になった恩師のキルケゴール論を少しだけ拾い読みする。
飯島宗享「キルケゴールにとってのフォイエルバッハ」から(「現代思想1977・4月号 特集=キルケゴール」)。

『哲学的断片』においてキルケゴールソクラテスを、あくまで人間的なものに終始する立場の代表者として、わけても人間の理性にとって理解されたものと理解されなかったものとの区別を明確に立てること堅持する〈筋の通った〉学的態度の守護者として、それゆえその自己限定のゆえに貴重な意義を担う資格をもつ者として登場せしめる。このソクラテスにとって、逆理は壁である。彼はその前で立ちどまらざるをえないし、立ちどまってこそ理性であり、立ちどまることが逆理に対する理性の正しい反応であって、それは逆理を逆理として認め遇することでもある。ソクラテスが担う理性と学的態度がこうであることによって、逆理(背理、不条理といってもよい)としてしか理性に対しては現われえないキリスト教が、ソクラテスを一方とするその対極として逆理とともに定立されて、理性によって理解されえぬものに対する信仰による通路を保障する。すなわち、逆理が逆理として堅持されることこそが躓きの石として、それに躓くか、それを信じるかという自由における信仰に場を備える。信仰が信仰であるためには、躓きとしての逆説が不可欠である。

キルケゴールにとってのフォイエルバッハは、『哲学的断片』でのソクラテス、『非学問的後書き』でのレッシングに相当する、というのが先生の解釈であった。

キルケゴールにとってのフォイエルバッハもまた、むろんマルクスが用いたときとは違ったニュアンスにおいてではあるが〈通り抜けねばならぬ火川〉であり、真のキリスト教的なものをわがものにする道での不可欠な否定的契機=反定立とされた。

「火川」(=煉獄)というのは、フォイエルバッハの名前に引っかけた青年マルクスの言葉遊びで、それを読んだキルケゴールも面白がってノートしていたらしい。

キリスト教を(ということはキルケゴールにとっては同時に人間の実存をということでもあるが)、その頽落の現状から回復するには、破壊がまず登場すべきであり、味方としての擁護や弁護よりも敵としての攻撃が有効であり必要であると、キルケゴールは考えている。

キルケゴールにとってフォイエルバッハは「時にかなった躓きの石」である。

それはあくまでも躓きの石としてであって、行くべき道を示す道標としてではなかった。

ヘーゲル左派という言葉の定義にもよるが、同時代のヘーゲル批判者という意味ではキルケゴールヘーゲル左派(レーヴィット説)ではあろうが、いわゆるヘーゲル左派の代表者・フォイエルバッハに対するキルケゴールの評価は、青年マルクスと「火の川」(煉獄)という点では一致するが、渡りついたところが違うということか(マルクスは逆説を回避した?)。
先生が亡くなられてから、もう二〇年以上が過ぎた。
今となっては、もっと勉強しておけばよかった、あれもこれもお尋ねしておけばよかった、と悔やむことばかり。