「知識基盤社会」について

最近、お役所の文書や教育関係の資料で「知識基盤社会」という言葉をよく目にするようになった。学習指導要領でも使われている。気になっていたので少し調べてみた。
当初、ダニエル・ベル『知識社会の衝撃』(山崎正和訳・阪急コミュニケーションズ,1995)あたりがネタ元ではないかと思っていたのだが、そうでもないらしい。
この言葉は、中教審答申「我が国の高等教育の将来像(答申)」(平成17年1月28日)で用いられてからよく使われるようになったようだ。

○  21世紀は「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている。これからの「知識基盤社会」においては,高等教育を含めた教育は,個人の人格の形成の上でも,社会・経済・文化の発展・振興や国際競争力の確保等の国家戦略の上でも,極めて重要である。精神的文化的側面と物質的経済的側面の調和のとれた社会を実現し,他者の文化(歴史・宗教・風俗習慣等を広く含む。)を理解・尊重して他者とコミュニケーションをとることのできる力を持った個人を創造することが,今後の教育には強く求められている。また,高等教育においては,先見性・創造性・独創性に富み卓越した人材を輩出することも大きな責務である。

「21世紀は「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている」というのがすごい。誰が言っているのか明示していない以上、これは伝聞なのである。
「地球は丸い」と言われている、と言ったら何か変な感じがする。地球が丸いのは実証済みの定説なのだから、ただ単に「地球は丸い」と言い切ればよいのに、何をもったいをつけているのか、と思う。また、私のような愛煙家が、「タバコは健康を害する」と言われている、と言ったとしたら、世間ではそう言われているけれども本当かね、というポーズが含意される。「キルケゴール実存主義の祖だ」と言われている、となると、確かに通説ではそうなのだけれども、「実存主義」の定義次第では別の言い方もあり得る、という意味になる。「河童の手は伸びる」と言われている、と言うのは、言い伝えではそうだけれども事実としてどうかは定かではない、という時に使う言い方だ。
さて、「21世紀は「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている」と言うのがこのうちのどれに当たるのか、いずれにせよ、この文を書いた人が、「21世紀は「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代である」と積極的に主張しているわけではないことになる。案に相違して、21世紀が「知識基盤社会」の時代とはならなかった時のために、責任の所在を曖昧にしているようにも受け取れる。
しかし、次のように、やや詳しい定義も試みられている。

○  21世紀は,新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す,いわゆる「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている。
○  「知識基盤社会」の特質としては,例えば,
知識には国境がなく,グローバル化が一層進む,知識は日進月歩であり,競争と技術革新が絶え間なく生まれる,知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く,幅広い知識と柔軟な思考力に基づく判断が一層重要となる,性別や年齢を問わず参画することが促進される,
等を挙げることができる。
○  こうした時代にあっては,精神的文化的側面と物質的経済的側面のバランスのとれた個々人の人間性を追求していくことが,社会を構築していく上でも基調となる。また,国内・国際社会ともに一層流動的で複雑化した先行き不透明な時代を迎える中,相互の信頼と共生を支える基盤として,他者の歴史・文化・宗教・風俗習慣等を理解・尊重し,他者と積極的にコミュニケーションをとることのできる力がより重要となってくると考えられる。

ここまで具体的に言えるのであれば、なにも「いわゆる「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている」などと、遠慮がちに言わなくてもよさそうなものなのだか、「知識基盤社会」という語について、この答申の「用語解説」では次のように「解説」されている。

知識基盤社会 (p.1,2,3等)
 英語のknowledge-basedosocietyに相当する語。論者によって定義付けは異なるが,一般的に,知識が社会・経済の発展を駆動する基本的な要素となる社会を指す。類義語として,知識社会,知識重視社会,知識主導型社会等がある。

なんと「論者によって定義付けは異なる」ときたか!
どうにもこうにもはっきりしないのである。

中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」(2005.1.28)の論点整理と批判的コメント(国庫助成に関する全国私立大学教授会連合高等教育政策検討委員会、2006年4月30日)によれば、下記の通り。

「はじめに」の冒頭に「21世紀は『知識基盤社会』(knowledge-based society)の時代であると言われている」(同1頁)という文章が出てくる。「用語解説」を見ると、「英語のknowledge-based societyに相当する語。論者によって定義付けは異なるが、一般的に、知識が社会・経済の発展を駆動する基本的な要素となる社会を指す。類義語として、知識社会、知識重視社会、知識主導型社会等がある」(同82頁)とされている。第17回大学分科会(03.4.11)の資料では「知識社会」あるいは「『知』の世紀」が使われていた。これを変えた理由は明示されていないが、EUの「リスボン宣言」(2000年)[今後10年間で「知識基盤社会」の建設を目指す] 等が念頭にあるように思われる1)。

なお、堺屋太一氏によれば、堺屋氏の発案による言葉だという(国家戦略本部講演会第11回 平成14年3月6日「今日本は何をすべきか」)。
http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/event/meeting0011-1.html

 「 Knowledge Based Society」という言葉は、最近、国連でもOECDでも盛んに言われておりまして、学会でも話題でございますが、この語源は、私の「知価革命(Knowledge Value Revolution)」という本に発しました言葉で、日本発の経済用語として世界的になっているのでは、「水平分業」以来、30年ぶりのヒットだと言われております。私は経済企画庁長官をしていたときに、世界中、アメリカへ行きましてもヨーロッパへ行きまして中国へ行きましても、Knowledge Value Revolution、Knowledge Based Society の講演会を頼まれました。

さすが「団塊の世代」の名付け親と言うべきか。しかし、堺屋氏が『知価革命』で言い出したときの定義と、中教審答申や学習指導要領で使われた意味とがまったく同じという保証はない。
そもそも、元官僚で、長官職も勤めた、いわば政府にとって身内といってもいい堺屋氏の提唱したものであるならば、「いわゆる」とか「であると言われている」などと、留保をつけなくてもよさそうなものではなかろうか?。
だから、これにて一件落着という気にはどうしてもならない。
『知価革命』を読んでみないとわからないな。

追記

今朝、出かけに、地元の図書館によって堺屋太一『知価革命』を借りてきた。通勤電車の中でパラパラ見ただけなので見落としているかもしれないが、この本に「知識基盤社会」という言葉は見当たらない。代わりに「知価社会」という造語は頻繁に出てくる。

追記の追記

「平成12年版科学技術白書」に次のようにあった。

第1部   21世紀を迎えるに当たって
第3章  21世紀における科学技術と社会の関係
第2節  知識基盤社会への対応
1.  知識基盤社会への移行

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 前節で述べたように,21世紀の社会は,科学技術を中心とする新たな知識の旺盛な開発と社会への適用を求めている。

 さらに,例えば,ライフサイエンスの分野では,ヒトゲノム解析が国際的な協力の下で進められている一方で,ベンチャー企業等でも医薬品産業等での利益の独占を目指して,同様の解析を独自に進め遺伝子情報の特許を取得すべく,世界がしのぎを削る状況が展開され始めている。このことに限らず,21世紀の経済社会においては,知識と情報をいち早く獲得した者が生き残るといった競争が厳しさを増していくものと考えられる。

 また,科学技術と社会は今後ますます接近し,一般国民は自らのものとして科学技術を手にし,その内容に関する十分な知識を持って,科学技術活動の意思決定に参画していくことが求められる。

 このように,産業や国民の生活など社会のあらゆる活動が知識を基盤として急速に展開されるようになり,21世紀,社会は『知識基盤社会』へ移行していくことになると考えられる。

 このような社会の変化に対応していくには,何よりも新たに知識を生み出すと同時に,既存の知識も含めて整理・統合し,如何に効果的に社会の各局面で活用していくのかが大きな鍵となるであろう。このためにはまず,社会に十分な知識が蓄えられることが重要である。

つまり、「産業や国民の生活など社会のあらゆる活動が知識を基盤として急速に展開されるように」なる社会を「知識基盤社会」と名付けたわけだ。
ところが、さらに調べてみると、「知識基盤社会」という言葉は、「平成12年版科学技術白書」に先立って、「21世紀の社会と科学技術を考える懇談会 ―中間報告」(平成12年3月)に登場していると言われている。この懇談会のメンバーには村上陽一郎西垣通山崎正和、の各氏がおり、なるほどな、という感じはする。以下、同中間報告より該当箇所。

(3)「知」の統合と知識社会の構築
21世紀は知識社会(ナレッジ・ソサイエティ)あるいは知識基盤社会になることは確実である。それは社会の仕組みが、政治も経済も外交もすべて「知」を基盤として構築される社会である。ここに言う「知」とは、科学技術はもちろん、人間の「知る」というあらゆる営みを言う。従って、それは広い意味での哲学とも相通じるものである。
20世紀、自然科学と人文・社会科学はそれぞれ独立の学問として発展してきた。その結果として、我々は多くの解決困難な問題に直面している。例えば医学の進歩によって、生命の本質にまで手を入れることが可能となりつつあり、生命倫理が大きな課題となってきた。科学にも、また倫理が求められる時代となったのである。環境問題は資源循環型経済社会への転換を迫っており、科学技術への期待が高まっている。しかし、それのみですべてが解決するわけではない。人間が充足感を持つことのできる新しい豊かさとは何かを真剣に問わねばならない。当然、人文・社会科学はそのために大変重要な学問となるであろう。現在、独立して発展してきた「知」が統合されてこそ、21世紀に相応しい知識社会が出現することになるであろう。換言すれば、知識(knowledge)と英知(wisdom)の統合と言ってよいかもしれない。「知恵の時代」という言葉にもそうしたニュアンスが込められている。そのような意味で、新しい21世紀型の科学技術文明の進展が求められている。今こそ、様々な分野の学者が集うフォーラムが、知識社会の構築のため必要になっていると言える。

ここではこれまで見てきた文献と違って、「21世紀は知識社会(ナレッジ・ソサイエティ)あるいは知識基盤社会になることは確実である」と断言している。「いわゆる」「と言われている」、に比べると、「確実である」とはなんという自信だろう。「21世紀の社会と科学技術を考える懇談会」としてこう考える、という姿勢が立派である。

補記

帰りの電車でもう一度読み返してみたのだけれども、堺屋氏の著書にある「知価革命」または「知価社会」が、「知識基盤社会」の語源だという確証は得られなかった。ただ、この『知価革命』という1985年に刊行された本が、その後の二十年間の社会の動向をよく捉えていることは事実だ。堺屋氏としては自分の見通しが当たったことに大いに気をよくしての発言だろう。
ただ、実際には、堺屋氏自身も同書のなかでダニエル・ベル(『脱工業化社会』)、トフラー(『第三の波』)、ファーガソン(『アクエリアン革命』)らの名前を挙げているが、よく似た発想は他にもいくつかあって、それらが収斂して「知識社会」あるいは「知識基盤社会」という社会像が提唱されたというのが妥当なところではないか。

補記の追記

上に、堺屋氏の「見通しが当たった」と書いたけれども、堺屋氏は通産省退官後も、税調など政府の審議会の委員を歴任し、世紀の転換期に小渕・森内閣経済企画庁長官も務めているのだから、この場合、見通しが当たったのではなく、そうなるように政策を推進したとも言える。