零細市民にできること

そういえば、このあいだ読んですっかり感心した『経済ジェノサイド: フリードマンと世界経済の半世紀 (平凡社新書)』の著者を囲むシンポジウムを見物してきた。
人類学者や政治学者もまじえての議論で、世界規模でお先真っ暗なのがよくわかった。
かつて「生活保守主義」という言葉が、否定的なニュアンスで語られたことがあったが、これからは本気で生活を保守しないと、私らのような零細市民(小市民と言うのもおこがましいので)は、とても暮らしていけない。
道に迷ったら、いやな予感の方を優先して、慎重に判断した方がよさそうだ。
それから、気鋭の社会学者某氏の話を聞く機会も得た。
私のような単細胞の悪い癖で、社会現象に単一の原因を探し求めがちだが、一つの原因にこだわるのではなく、複数の条件の重なりあいのなかで事柄をとらえることが大切だと学んだ。
ただ、社会科学系の学者さんたちの話を聞いていると、それはもう皆さんよく調べておられて感心するばかりなのだが、議論があまりに精密で、前提となる知識もあまりに莫大で、私のような仕事と生活のあいまにちょっと本を読んで、うすぼんやり考えるだけの人間にとっては、とてもついていけないと感じることもしばしばである。
現代社会をどうとらえるかというようなテーマだと、現代の諸問題がさまざまな角度から分析されて、とにかく困ったことになっていますということだけはよくわかって、そこで素人はそれならどうしたらいいのか?という疑問を抱くわけだが、そういう質問が出ることについては学者さんがたも予想されていて、そこは皆さん一人一人で出来ることは何かを考えていきましょう、と先回りして言ったりするのだが、そういうオチになるだろうことは素人の側も先刻承知で、やっぱりね、ということになる。
各人で考える、というのは、たくさんの資料やデータを集め、あるいは問題の現場に行って調査し、それを適切に分析することができ、その結果を解釈する先行理論を子細に検討するなどの予備作業のできる能力と余裕のある人たちのあいだでこそ通用する言い草であって、私らのような零細市民にはそれはできないのである。
もちろん、素人の側も医者に治療法を尋ねるみたいに、絶対正しい対処法を聞きたいと言わんばかりの人もいるので、学者さんたちとしては、先刻よりご説明してきましたようにそういう単純な問題ではないのです、と言いたいこともよくわかる。
これが絶対正しい解決法なんていうのは、よほど単純な問題についてか、あるいは真っ赤なウソかであって、現実は、あれもこれもの条件をクリアしながら悪戦苦闘して取り組むほかないのは、これは学問の世界だけでなくどこでも同じことである。だから、各人ができることは何かを自ら考えようという学者さんの言い分は至極もっともなのだが、たいていの素人にとって自分のできることは限られている上、何が目的にかなったことなのかを考えるのも一苦労だ。そこで、一般向けに研究成果をまとめてくれた新書に飛びつくことになるのだが、よくできた新書ほど説明が上手で、なまじよくわかるものだから、それだけでは物足りなくなり、著者の講演会などに足を運んでより詳しい話を聞き、そして…。というように堂々めぐりが始まるのである。
結論は出ないのだが、考えるためには生きていなければならない。孔子は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」なんて言ったそうだが、そんなバカな話はない。それを知ったらその日のうちに死んでもいいような真理なんて、その人個人の絶望の肯定以外の何だろうか。少なくとも生きていくための知恵ではないことだけは確かだ。
私個人は長生きにこだわる気持ちは全然ないのだが、もう少し生きていくために、健康と仕事の維持のための工夫につとめようと思う。とりあえず零細市民にできることとはそういうことだ。