アリストテレスの知慮9

さて、ハイデガーアリストテレス解釈を読んでいるうちに、いつの間にか主客転倒してアリストテレスによるハイデガー解釈を始めてしまいそうな妙な雰囲気になってきたので、ムム、これは彼奴の術中にはまりかけているな、さてはこの手で若い者をたぶらかしたんかい、と思ってあわてて中断した。
中途半端なまま放ったらかしにしておくのもなんだから、簡単なオチを付けておく。
ハイデガーの『ニコマコス倫理学』ゼミに出席していたガダマーの回想(「ハイデガーの初期「神学」論文」『アリストテレス現象学的解釈』より)。

私自身について言えば、初めて参加したこのアリストテレスの演習が、特に思慮、実践的な知に備わる基本的な意味を知るうえで手ほどきの役割をしてくれた。〈中略〉かくしてアリストテレスの思慮は、われわれが近代哲学において判断力の概念、カント『第三批判』の独自な意味として知るところの先駆けともいうべきものとして映ってきた。アリストテレスがここで浮き彫りにしようとしている知りつつ在ることの本当に最高の形式はただ二つしかない、ひとつは智慧、いまひとつは思慮、自分自身の生を実践的に照らす照明である。私は、ハイデガーがすでにこれを確かな眼で見抜いているのを、当時の演習の中で知ったが、これはこのたびの草稿からも実に明瞭に読みとれるところである。(p114)

このガダマーの証言、特に「かくしてアリストテレスの思慮は、われわれが近代哲学において判断力の概念、カント『第三批判』の独自な意味として知るところの先駆けともいうべきものとして映ってきた」というのは、先にアーレント「文化の危機」を引いて、ハイデガーのもとで学んだ彼女はカントをアリストテレス的に読みかえたのだろうと推測したが、それを裏付けてくれた。
ハイデガーにしごかれたのだからアリストテレス的発想が自然に身に付いていたのだろうくらいに思っていたのだが(http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090308/1236477812)、ガダマーの言葉を信じるなら、アーレントのカント解釈のヒントはまさしくハイデガーアリストテレス解釈だったということになる。
ガダマーもまた独自の仕方でフロネーシスを再解釈して自らの解釈学に取り込んでいる(『真理と方法』)が、これもハイデガーの影響だろう。
ちなみに、ハイデガーのもとに留学中、ガダマーに世話になった三木清の次の文章にもなにがしかの影響を見て取ることもできるかも知れない。(「指導者論」『哲学ノート』新潮文庫より)

社会的良心は自己の行為の結果に対して責任を負うことを要求する。ところで成功するためには知識が、予見が必要である。どれほど動機が純粋であっても−−動機の純粋性はもちろんあらゆる場合に先ず要求されるものである−−無知であったり予見力が全くなかったりしては不成功に終わるのほかない。ここにおいて道徳は知識もしくは知能と結び付かねばならぬ。知識と道徳とは元来分離し得べきものではないのである。(p53-p54)

三木はアリストテレスの名をあげていないが、ここで社会的行為と結びつけられている「予見力」「知識」が、「フロネーシス(知慮、洞察力、思慮)」であることは間違いないだろう。この文章を含むエッセイが「指導者論」と題されていることも興味深く思われる。
閑話休題。しかしながら、これはアーレントの判断力論にケチをつけようというケチな根性からいうのではない。ハイデガー解釈に立ち入る気は毛頭ないが、『存在と時間』の関心・配慮がフロネーシスに由来するものだとすれば、それはアリストテレスにはあった社会性をきれいさっぱり脱色している。アリストテレスのフロネーシスとカントの判断力を重ね合わせる解釈のヒントがハイデガーにあったとしても、師が捨象してしまったフロネーシスの政治的含意を回復させたのはアーレントの功績だろう。