結論のないおしゃべり

以下、結論のないおしゃべり。ご用とお急ぎのない方だけ読んでください。
matsuiismさんの北村透谷論を読んで思いついたことがあるのでメモ。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110119/p1
そのコメント欄に「「維新の革命」を「精神の革命」へと深化させようとする志」とあるのを読んで、ふと思い出して中村雄二郎西田幾多郎論を引っ張り出した。無知で軽薄な学生だった私が透谷の「内部生命論」を読んだのは、中村の西田論にそれが引かれていたからだった。
書架に中村の西田論は二冊あって、一つは「20世紀思想家文庫」と題されたシリーズの『西田幾多郎 (1983年) (20世紀思想家文庫〈8〉)』。確か、同シリーズからは同時発売で広松渉メルロ=ポンティ (1983年) (20世紀思想家文庫〈9〉)』も出て、中村も広松も当時人気のあった大先生だったから、わあこんなのいっぺんに出さないでよとボヤキながら神保町の岩波直営書店でまとめて買ったような記憶がある。
もう一つは、『西田哲学の脱構築』と題された、前掲西田論の続編。現在の基準から見て、これで西田哲学を「脱構築」したことになるのかと言えば、ちょっと断定は遠慮しておきたい。
ともかく、この二冊で中村は透谷を西田の先駆者として位置付けている。
1983年に出された『西田幾多郎』は、中村にとって版元の求めに応じたという以上の野心的な著作であった。第一章が「日本の哲学」と題され、中江兆民の「日本に哲学なし」という言葉を掲げて書き出されていることからもその気負いがうかがわれる。兆民の「日本に哲学なし」という一喝はたしか中村の他の著作でも引かれているはずで彼のお気に入りの名文句だったのだろう。日本に哲学は可能かというのが、中村をして西田論に取り組ませた問題意識の核心だった。
第2章で中村は、西田の論文「論理と生命」を引いて、西田の問題意識が「自己」の問題に発すること、「アイデンティティ(自己同一性)の拠り所となる真の自己とは、内部生命的な自己であった」と指摘し、そうした自己への探求は西田一人の関心ではなく同世代の「<明治の青年>に共通して見られる」として、その例として透谷の名を挙げた。

真の自己が内部生命のありかとして求められたという点で、西田との関連でとくに興味深く、西田の真の自己の孕む問題を映し出しているのは、西田より二つ歳上ながら若くしてみずから生命を断った詩人思想家北村透谷の<内部生命論>である。死の前年(明治二六=一八九三年)に書かれた「内部生命論」は、身を以ての民権運動への参加、絶望、挫折を経たのちに内部生命の立場に立って自己の再生をはかろうとしたものである。(p46)

そして、こうした着眼の先例として、山田宗睦『日本型思想の原型』(三一書房)を挙げ、山田の「西田幾多郎の『善の研究』は、じつに、この透谷の「内部生命論」の哲学化であった」という判断を「これは単なる系譜論をこえた、射程の大きい指摘である」と称賛している。
『西田哲学の脱構築』では「第?章 西田幾多郎小林秀雄」の冒頭で、『西田幾多郎』におけるものとほぼ同趣旨のことが述べられている。こちらの方が中村の問題意識がわかりやすい。

国家として社会として近代原理の導入を目ざした日本では、知識人たちはその時期にあらためて近代的自我を確立する努力をしなければならなかった。この場合、その近代的自我はおのずと二つの側面を持つことになる。一つは、西欧的な近代的自我が異なった文化土壌に移植されるために根づきにくく表面的なものになることであり、もう一つは、その表面化された自我の背後に深奥の自我、真の自己が求められるということです。(p161)

透谷・西田の思想的営為は、この二つの自我をめぐる問題への一つの回答だというのが中村の見立てということになるだろう。
明治知識人についてのこうした問題設定自体は、当時としてもそれほど目新しいものではなく、山崎正和の鴎外論などにも見られた傾向であり、そもそもこの『西田哲学の脱構築』でも再度引かれている山田宗睦が指摘していたことであった。ただ、哲学的にのみ扱われることの多かった西田哲学の基幹部分に思想史の視点を大胆に導入した点こそ、すぐれた思想史家であった中村の面目躍如というところか。
さて、中村は透谷「内部生命論」を引いて次のように言う。

第一の心宮=表面的自我から第二の心宮=内部生命への急速な移行あるいは深まりは、彼の若くしての自由民権運動への参加、挫折、そして絶望という足早な経過と密接に関わっており、それは彼における近代的自我の脆弱さを示しています。透谷の内部生命論の主張は、おのれの新しい根拠を求め、おのれの思想的な再生をはかったものです。
さて、このような自己の探究は、十九世紀末に青年期を迎えた日本の知識人に多かれ少なかれ共通して見られたが、それをもっとも粘りづよく徹底的に押しすすめたのは西田幾多郎でした。彼もまた、独立独歩の精神に富み、若いときには自由民権運動に共感を抱いていました。が、青年客気の行動が災いして、大学の正規のコースに進めず、したがって卒業後、不遇な道を歩まねばならなかった。そういう点では、西田にも透谷と相通ずるところがあります。(p163)

こうした中村の透谷・西田のとらえ方に、軽薄だった当時の私はあまり関心を持たなかった(いやそれでも色川大吉自由民権 (1981年) (岩波新書)』を読んだのも透谷に刺激されてのことだったろうから、まったく興味がなかったというのはウソだけれども)。
西田幾多郎』が刊行されたのが1983年、『西田哲学の脱構築』は1987年である。
83年から87年といえば、バブル景気の真っ最中で、多幸感と浮遊感が少なくとも都心部には漂っていた。だから中村の西田論もジャパン・アズ・ナンバーワンの哲学版だろうなどと陰口をたたかれていたりした。
しかし、あらためて読み返してみると、中村は上に引いた文章で、透谷と西田の共通点として政治的挫折を挙げている。どうでもいい伝記的エピソードとしてではなく、透谷の思想の契機としてふれている。西田についても「政治的挫折」という表現が妥当かどうかはわからないが、少なくとも社会の現実に対しての挫折ではあろう。
中村がこうした表現に何かメッセージを込めていたのかどうかもわからない。山田宗睦の指摘を継承して、西田を明治の知識人群像のなかに位置づけただけなのかもしれない。ただ、いずれにせよ中村が、透谷や西田のように、社会的な自我ではなく形而上的な生命を自らのアイデンティティの根拠とするような発想の契機として政治的・社会的挫折を挙げているのは事実である。
もちろん、政治的・社会的な挫折を経験したからといって、誰しもが必ずしも哲学的内省に至るわけではないだろうし、社会的な自我の内奥に内的な自己を想定する思想が必ずしも政治的社会的挫折を契機に生まれるわけでもない(例えばベルクソンは『直接与件論』で社会的自我/深層の自我を言うがそこに政治的社会的挫折の契機はない)。両者の間に必然的な関係はないだろう。
そのことは踏まえたうえで、政治的社会的挫折が契機となって内的自己の探究に向かい、自己の思想的な再生を企てる事例もある程度はあるだろう。必然的な関係はないにしても、そういう傾向が少なくとも日本近代にはあったとまでは言えるかもしれない。
さて、仮にそうだとして、中村はなぜあの時期にそうした図式を持ち出したのだろう。戦後日本の経済が絶頂期にあったあの頃、近代日本の知識人の自我の確立という主題を、その自我の確立はいったんは挫折しているわけだから自我の再確立つまりは再生として、挫折した自己を思想的に再生するというストーリーとして語ることにどういう意味があったのだろう。
ドストエフスキー『悪霊』のシャートフやキリーロフのことを思い出しながら、よくわからないままそんなことをぼんやり考えた。