素人の印象

<米リーマン>日本、打つ手なし 閣僚会議「影響ない」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080916-00000127-mai-bus_all

米大手証券、リーマン・ブラザーズの経営破綻(はたん)を受け、政府は16日午前、緊急の金融関係閣僚会議を開いた。米金融危機の深刻化で世界同時株安が進み、日本経済への打撃も懸念される中、福田康夫首相は「いかなる事態にも万全の措置を」と閣僚らに指示した。しかし、福田首相が退陣表明し、自民党総裁選が進むレームダックの状況で思い切った手を打てるはずもなく、会議は「現時点で日本の金融機関の経営に重大な影響はない」(茂木敏充金融担当相)ことを確認しただけに終わった。

いくらなんでも、影響はないということはないのじゃないか(バブル崩壊のときにブラックマンデーというのがあったが、あの程度ですむかどうか)。
リーマンが破産しメリルリンチが合併吸収されるというのは、ものすごいことではなかろうか(メリルリンチが吸収した旧山一は跡形もなくなったらしい)。
私の頭は単純なので難しいことはわからないが、この事件はネオリベラルな経済政策をとっていても不況になることはある、場合によっては恐慌も起こりうることを指し示しているのではないのか。
先日のPISAテスト結果もそうだ。ネオリベラルな教育政策をとっても教育水準はさしてあがらない(学校間競争をしないで日本一だった秋田県の教育に学校間競争を持ち込もうとする秋田県知事はこれがわかっていない)。
ついでだが、イラク戦争開戦の理由が虚報によるものだったことも忘れられない。
万事アメリカ流のネオリベラリズム路線に追随していればよいということではない、という判断はこの程度のことを知っていれば十分にできる。事実を横目で見るだけでよいレベルなので、バカバカしくて議論する気にもならない。
そう思わない人も多い理由が何かについては、もはや社会心理学の課題だろう。
このレベルの判断は価値観や世界観の問題ではなく素朴な事実認識の問題であるから、ネオリベラリズム批判がなかなか浸透しないのは、批判論者の論法や表現の問題では、おそらくない。
だから、ネオリベラルな諸政策の是非を思想の問題として過度に重視する議論には注意が必要だ。
特定の思想を自らの行動原理としてそれに深くコミットしている人など少ない。かく言う私自身がそうだ。何主義者ですか?と尋ねられたら「さあ…」と口を濁さずにはいられない。
ましてや世界経済だの国際政治だのといった大がかりな話題についての判断基準は、専門家でもないかぎり、たいていの場合、思想ではなく、嗜好や習慣なのではないか。
思想とはしょせん、という言い草を私は好まないが、しかし、一種の話芸という側面が思想というものにつきまとうことも確かだ。
ある程度、学問の修練を積んだ人なら白を黒と言いくるめるくらい造作はない。現代のソフィストのおびただしい数は、ソクラテスが何人いても掃除しきれないほどだ。
批判的にではあれネオリベラリズムが語られている場合、思想のレベルで云々する前に事実が端的に指し示されているか、素人としては注意しなければならないだろう。

どうもなにを言いたいのか、自分でもわからなくなったので追記

このニュースに関連して神谷秀樹という方のエッセイをたいへん面白く読んだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080917/170793/?P=1

 「起こるべくして起きた」ことである。ウォール街は、何かの外部要因によって破綻したのでは決してない。自らの強欲を、自分でコントロールできなくなり「自爆」したのである。

 筆者はここ数年、「大恐慌が来る」と警告し続けてきた。それは、そうしたウォール街の生きざまを見ていて、「続くわけがない」と確信していたからである(断っておくが、筆者はエコノミストでも預言者でもない。ただ人の行動を観察しているだけである)。

私の言いたかったこともだいたいそういうことです。
「思想」は、考えられた意見、ですから、必ずしも学問的でなくてもかまわない。居酒屋や床屋の客にだって生活の意見はある。
床屋の客としての私にも、自分の生活や、自分の見聞きしている範囲の社会についての意見はあります。おそらく誰にでもあるでしょう。それはそれで否定されるべきことではありません。
そして、神谷氏が謙遜して言うように「ただ人の行動を観察しているだけ」でわかることもたくさんある。そうしたことについて、いたずらに「思想」的粉飾を施すことは、誤魔化しにつながりはしないか。むしろ、神谷氏のように率直に語るべきなのではないか。
もちろん、制度の仕組みやその効果について判断するために専門的な知識が必要とされるテーマについては、また別の話だろうが。
もっと率直に言ってしまえば、神谷氏が「米国の金融自由化がちっとも人々の幸福に繋がらず、より大きなバブルを形成している事実」と言っていることから知れるように、「ネオリベラリズムの功罪」という議論は成り立たない、メリットとデメリットがあるような議論の建て方はおかしい。
日本の場合だと、小泉改革以降、現実になにかいいことがあったのか、福祉水準は下がる、教育は混乱する、人件費も下がる、したがって収入も下がる、貯金も減る、借金だけは増える、意味のない戦争に加担する、そのために国家財政が無駄遣いされる、挙げ句の果てに景気は悪くなる、社会を運営するという目的に照らしてなにかいいことがあったのか、と。
これだけ結果が出ていて、ネオリベラリズムの功罪だの思想的課題だのを議論することのバカバカしさったらありゃしないわけです。見ればわかることです。
「思想」として語るというのは、未来のことを語るには有益なんですが(未来は見てわかるものではありませんから)、現在のことを語る場合は、現状の正当化にしかならない。
見ればわかることをベースにしない議論には意味がない、そういうことが言いたかったんでしょうね(たぶん)。