「民間」という言葉

少し前に放言した政治音痴の戯言http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20100412/1271074489の追記で「自由を擁護し、徹底しようという発想から生まれた政策が、いざ実行されるや、客観的には全体主義的な社会を作り出してしまう。ここのところが今ひとつ上手く呑み込めない」と書いたが、いかにも中途半端だったので、sumita-mさんから飛んできたトラックバック記事http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100416/1271390292アーレントが参照されていたのにヒントを得て、少し続きを書いてみる。
かつて小泉元首相が、民間でできることは民間へ、と訴えたときに、私はその主張にそれほど否定的な印象を持たなかった。民間にゆだねるべきことに政府が口を出すことは好ましくないと考えていたからである。
しかし、教育基本法改正案(自民党案)が出てきて驚いた。それは国民に対して道徳を訓示する内容だったからである。
私の考えでは、道徳とは民間に委ねるべきことという範疇のド真ん中にあるべきはずの事柄だった。
その後、小泉政権を継承した安倍政権下で改正された現行の教育基本法は、当初の自民党案よりは表現はソフトになっているとはいえ、道徳を法で定めていることには変わりはない。
改正前の旧法をほめちぎる人が今でもいるが、それにしても教育の目標としてある種の人間像を理想化していたから、その点は五十歩百歩なのだけれども、それでも憲法を根拠としている点で現行法よりはマシだった。
現行法の酷い点は、それの定める道徳の内容が事実上、学習指導要領に示された「道徳」の内容をなぞっていることにあり、さらにその根拠となる学習指導要領が、民主的手続きを経ることなく、文科省が半ば恣意的に決めることのできる綱領的文書でありながら、事実上は法令のような拘束力を持っている点にある。
つまり、一握りの官僚と文科省の覚えのめでたい審議会委員によって、日本で教育を受けるすべての人々が学ぶべき道徳が定められるという構図になっている。
こんな思い上がった話はないのであり、戦前の教育勅語と比べても制度上の正統性への配慮すらない、実に無責任な代物なのである。
だから私から見れば、教育基本法の改正は、民間に委ねるべきことは民間にと主張している政府が、民間に委ねられるべき領域のど真ん中に踏み込んで、個々人の生き方を恣意的に指図しようとしているようにしか見えなかった。
どこが新自由主義ネオリベラリズム)なんだ、自由でもリベラルでもないじゃないか、と私は唖然としたものだった。
このねじれ(のように見える政策の選択)は、小泉氏とその後継の安倍氏との政治姿勢の違いに帰着するものであろうか。しかし、教育行政における道徳の強調は小泉氏の前任である森政権時代から強調されていたことであり、同じ派閥に属する小泉政権がそれを引き継ぎ安倍政権が完成させたと見るのがごく自然な見方であろう。
したがって、教育基本法改正による国定道徳の決定という政策は、小泉政権に代表される政治にとって、イレギュラーなものでも副産物でもなく、当然そうしてしかるべきものだったはずだろう。
こう考えると、民間に委ねるべきことは民間へ、という小泉政権のスローガンの含意を私は誤解していたことになる。
小泉氏と私とでは「民間に委ねるべきこと」の内容や、それが委ねられる「民間」の具体的イメージが、大きくずれていたわけだ。
再び教育基本法を例にとれば、改正された現行法には「家庭教育」や「生涯学習」についても規定されている。私の考えでは「家庭教育」や「生涯学習」も道徳と同様に、各家庭や諸個人の意思に委ねられるべき領域であり、法律によってとやかく言う事柄ではないように思われてならない。しかし、小泉・安倍政権にとってはそれらは「民間に委ねるべきこと」ではなく、政府が法令によって指図するべきものと考えられていたわけだ。
また、小泉・安倍政権によって、道徳や家庭教育や生涯学習といった事柄を委ねられなかった諸個人や各家庭とは、政府の考える「民間」ではなかったということになる。
私は社会問題にうといので詳しくは知らないが、労働や福祉の分野でも似たようなことが起きているのではないだろうか。あるいは安倍政権が目指していた改憲案に、国民の責務が盛り込まれていたことも、こうした「民間」の意味の変化と関係があるのかもしれない。もう私の想像の範囲外だが、治安や国防・外交のジャンルではどうなのだろう。
新自由主義改革は政府の役割と民間の役割を仕切りなおしたと言われる。「民間」という言葉の指し示す内容を切り替えたのだとすれば、これは事業仕分なんか物の数でもないほどの大きな変革である。
では、新自由主義によって「民間」という言葉の意味はどのように変わったのか、ということは私にはまだよくわからない。わからないが、当面そこはブラックボックスのままにしておいて、新自由主義というものが民間と公共の関係の大きな変更に特徴があるとすれば、それはもはや旧リベラリズムに関係づけて受け止めるべき事柄ではないし、保守主義復古主義との野合のように思えた現象も、この「民間」という語の意味変容という視点から見れば、案外一貫したものとして理解しうるかもしれない。
柄にもなく難しいことを考えてくたびれたので、世間知らずの戯言はこのあたりでとどめておこう。