10年前の「論座」

引っ越しや大掃除のため蔵書を整理していると、思いもかけない(忘れていた)本が出てきて、作業の手を止めて読みふけってしまうことがある。今回の引っ越しで、私が「へぇぇ、こんな本が」と思ったのが、今は亡き「論座」1998年3月号(朝日新聞社)である。
1998年といえば10年前、原宿の「ホコ天」が廃止された年だ。前年に酒鬼薔薇事件とエヴァンゲリオン・ブーム(映画化)、加藤典洋高橋哲哉による歴史認識論争があり、それを受けて、「論座」3月号誌上では、大塚英志が十四才の少年少女を主人公にした企画がボツになったことについて触れており、上野千鶴子が後に『ナショナリズムジェンダー』にまとめられる論文「ポスト冷戦と「日本版歴史修正主義」」を寄稿している。たぶん私はそれを読むために買ったのだろう。
しかし、今回、10年の時を隔てて発掘されたその雑誌で気になったのは、買った当時の私は気にもとめなかっただろう特集記事の方だった。
論座」1998年3月号の特集は「経済敗戦から立ち直る道」だった。
特集の扉頁には編集部による次のようなリードが記されている。

昨秋来の経済危機に対して「敗戦」という表現が使われ始めた。/この無力感の広がりは、半世紀前と似ているのかもしれない。/あの戦争での敗北を、日本は「終戦」と呼び習わしてきた。/敗れたという事実をあいまいにしてきたことが、/自分の手でこの国を根底から変える意識を薄めたのではないか。/まず「敗戦」を認め、そこから復興の道を探るべきだろう。

まるで今年、これから出る雑誌の記事だと言ってもおかしくないような文章である。
しかし、この特集の巻頭論文は、決して今年の誌面を飾ることはないだろう。
巻頭に据えられたのは、田中直毅氏による「競争原理で日本を鍛え直せ」と題された論文だった。このタイトルには今昔の感を覚える。
内容もまさしく「今は昔」である。
例えば、金融危機への対処法として「アメリカは、不動産バブルの崩壊や中南米融資の焦げつきに対して、「債権の証券化」という手法を投入して問題をほぐすことに成功し、かつ金融機関としての能力を拡大した」と「債権の証券化」を肯定的に評価し、日本もそれに倣うべきだと主張している。現在の不況の引き金になったサブプライムローン問題が「債権の証券化」に起因するものであることくらい、今や経済音痴の私にでもわかるくらい明白な事実となってしまっている。
また、財政改革論議を支えるべき理念としてリベラリズム保守主義を挙げ、次のように論じている。

リベラリズムの立場からは、政府の関与は極小化されるべきであり、国民から徴収した租税は、国民にふさわしい「バリュー・フォー・マネー」(お金に匹敵する価値を生むもの)に投入されねばならない。また、アメリカに見られる保守主義は、赤字を続ける連邦政府はろくなものではない、という考え方である。それは赤字を続ける家計がいけないのと同様だというのだ。

ここで田中氏の言う「リベラリズム」にしても「保守主義」にしても、伝統的な意味でのそれではなく、現在、ネオリベラリズムと呼ばれて、格差社会を生んだイデオロギーと目されているものに他ならない。
私は何も、十年前の論文の言葉尻をあげつらって、田中氏の先見の明のなさを嗤おうというつもりはさらさらない。
ただ現在の不況や社会問題の原因と見なされているものが、十年前には構造的問題を解決する妙案として期待されていた、このギャップを記憶しておきたいという心算があるだけだ。
新年早々、景気の悪い話で恐縮だが、これは記憶するに値する事柄だと思ったのである。