妄想上のネオリベラリズム

しばらく前のニュースで、震災・原発に関連して、財界関係者が「復興のために法人税をあげると企業が海外に流出する」、「原発を止めると企業が海外に…」と脅しをかけているのを読んで仰天した。新聞やネットでも、評論家やら御用学者やらが異口同音に言っていた。
利益は企業に、負担は個人に、と言っているわけだ。グローバル化時代にネオリベラリズムナショナリズムがセットになる現象とはこういうことだったかと、実例を目の当たりした心持である。国賊こそが愛国者を求めるというのが事の真相だったかと、あらためて思い知った。
これまでも多くの論者が指摘していたことだが、正直なところ、リベラルという語のニュアンスから、ネオリベラリズムナショナリズムがセットになることに、どこか腑に落ちない印象を持っていた。
ところが、図らずも今回の震災で、両者の共犯関係の必然性が私の愚鈍な頭にもありありと理解できた。
ああ、こういうことだったのか、と。雇用の流動化も、無償ボランティアの奨励も、教育や福祉をはじめとする公的サービスの切り詰めも、みなみなこのためだったかと。
国家は大企業にのみ奉仕せよ、個人は自己責任で生き延びよ、そして、大企業に奉仕するところの国家に身を捧げよ、一切の負担を甘受せよ、と、話には聞いていたが、まっさかこの国難に際して口走るとは、いや心底呆れ果てた次第。
なるほどネオリベラリズムナショナリズムを必然的に要請するわけだ。ここにあまり難しい理屈はない。人件費は安ければ安いほどよい、もっともよいのが奴隷的奉仕の奨励だというのが、ネオリベ愛国教育の本音である。
そんなことしたら国家や社会がガタガタになっちゃうでしょ?と、まともな人なら気づくだろうと思っていたものだから、何か複雑な事情があるのかと考え込んでしまったが、そんなものはなかった。私が見落としていたのはネオリベ信奉者はまともではないということだった。もちろんこの場合の「まとも」とは私基準でしかないのだが。
私のイメージしていたリベラリズムとは、人々の価値観が多元的であることを前提として、それらが共存できるゆるい枠組みを微調整しながら維持していくという、すこぶる保守的な自由主義である。ところが、どうやらネオリベラリズムは経済活動の自由以外の自由は斬り捨ててかまわないとする排他的な価値一元主義のようだ。これは保守的な私にはまともなバランス感覚を欠いた偏狭な態度であるように感じられる。
彼らは、競争原理を強調し、弱肉強食を是とする以上、最大多数の最大幸福ではなく、最小少数の最大幸福を目ざさざるを得ないから、鋭角ピラミッド型の階級社会を理想としているわけだ。ただ、近代以前の階級制度が血統や名誉なども重視して組み立てられていたのに対して、ネオリベラルな階級社会は資産が基準になっているだけだ。
議論による調整よりも法令によって画一的な解決をはかりたがる傾向もネオリベの特徴であるが、これも排他的な一元主義から導き出される態度とみれば不思議はない。また、国家主義と親和的であるのもうなずける。
自分のエゴイズムは全肯定、他人には規律と道徳を求めたがる傾向もある。
などなどと脱線的妄想を繰り広げていくと、こいつは結局、裏カントなのではないかという気がしてきた。だとすれば、サディズムである。
以上、世間知らずの妄想にすぎないので、真に受けないでいただきたい。