アリストテレスの知慮7ハイデガーの解釈1

前回、「知慮(フロネーシス)」についてのアーレントの解釈を引いた際に、彼女はハイデガーの弟子だからアリストテレスは当然というようなことを書いたが、それなら当然のこと、ハイデガーの解釈も当たるべきだった。
恥ずかしながら、ハイデガーといえば存在論の人だからアリストテレスも『形而上学』ばかり読んでいたのじゃないかとバカな先入見を持っていたが、ガダマー『真理と方法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)』の注にハイデガーが『ニコマコス倫理学』をテキストにゼミをやっていたとあるのを読んであわてふためいた。調べてみたらちゃんと邦訳も出ていた。はあ、無知は恐ろしい。
以下、引用は『アリストテレスの現象学的解釈―『存在と時間』への道』より。この本では「知慮(フロネーシス)」は「思慮」と訳されている(ギリシア語ルビはプロネーシス)のでそれに従う。
まず、ハイデガーは「思慮(プロネーシス)」という語を「顧慮的にまわりに目を配ること(目配り)」と訳す。その上で次のように解釈していく。

思慮は、人間の生が自分自身と関わり合うときの、その関わり合いが向かう先と関わり合う様態とを、人間の生に固有の存在において真実化する。この関わり合いがプラクシスである、すなわち製作するのでなく、ただそれぞれ行為するだけの関わり合いという仕方で自分自身を取り扱うことである。思慮とは、生をその存在において時熟させるひとつの要因となりながら関わり合いに備わる照明である。(p70)

上の引用文中、「真実化」とあるのは『ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)』の次の文章に由来する。

いったい、「われわれの魂がそれによって、肯定とか否定とかの仕方で真を認識(アレーテウエイン)するところのもの」として、われわれは、五つのものを挙げなくてはならぬ。すなわち、技術(テクネー)・学(エピステーメー)・知慮(フロネーシス)・智慧(ソフィア)・直知(ヌース)がそれである。

この「真を認識(アレーテウエイン)する」を、ハイデガーは「真実化する」と言い、次のような意味だとする。

真実化するとは、「真理を征する」の謂いではなく、その都度そのものとして思念されている存在者を隠れなきものとして真実化(し保存)することを意味する。(p60)

なんだかよくわからないが、とりあえず棚上げにしておいて先を読む。

思慮において好機というこの存在者がいかに構成されるかが、具体的な解釈によって明らかにされる。行為する顧慮的な扱いは、つねに、世界との配慮的な関わり合いという具体的な様態をとる。思慮は、「何のために」をしかと保持し、そのたびごとに規定される「何々するため」(Wozu)を整え、「今」を捉え、「いかにして」をあらかじめ描きながら、行為する者が置かれている状態を照らしだす。思慮は、一定の仕方で見られている具体的な状況がその都度収斂する終極、最極端へと向かってゆく。思慮は、瞬間に対する究極のところ端的な見渡しとして何よりもまず第一にひとつの感覚であるからこそ、また論述したり顧慮・考量したりするものたりうるのである。(p70-p71)

独特の言葉遣いだけれども、アリストテレスが思慮についていろいろな例を挙げたり、他の事柄と比較したりしながら長々と述べていることをコンパクトに要約するとまさにこんな感じになるだろうと思われる。さすが、という感じがする。

思慮の真実化によって包み隠されることなく裁量されるものとなった存在者、それが仕事であるが、これは、いまだこれこれでありはしないというかたちで在るもののことである。しかし「いまだこれこれではない」として、しかもひとつの配慮が期するところ、向かう先として、それは同時にすでにこれこれであり、ひとつの具体的な関わり合いの心構えが向かう先である。思慮とは、この配慮の心構えを構成する照明の働きをなしている。(p71)

これは思慮の働きの対象について述べているもので、これも抽象的ながらアリストテレスの議論に沿っている。時間性を強調している点が、後に『存在と時間』を書くことになる哲学者らしいと言えるかも知れない。ただ、ここで「仕事」と訳されている語に「プラクトン」とギリシア語ルビが振ってあるが、これはアリストテレス自身の叙述では次のようである。「「政令」(プセーフィスマ)というものの規定こそ、究極的・最終的なものとしての実際の行為(プラクトン)にほかならない。」(岩波文庫上巻、p231)。

「いまだない」と「すでに」とは、両者の「統一性」において理解されねばならない。つまり「いまだない」と「すでに」のそれぞれを、自らの一面を特定の仕方で顕在化させたものとして併せ持つようなひとつの根源的な所与性、そこから両者が理解されねばならない。「特定の」というのは、ここで対象となるものがある限定された運動相に置かれているからである。欠如の概念は、右に挙げた抽出物の範疇である。ヘーゲル弁証法は、精神史的にはここに根差している。(p71)

ハイデガー自身はヘーゲルの名前しか出していないけれども、私にはこの引用文を含め、前に引いた二つの引用もあわせて読むと(それは実際には一つながりの段落である)、ベルクソン物質と記憶』の知覚論・行為論が連想される。「「いまだない」と「すでに」のそれぞれを、自らの一面を特定の仕方で顕在化させたものとして併せ持つようなひとつの根源的な所与性」というのはベルクソンなら「現在」あるいは具体的な持続と言ったものであるようだし、そうしてみると、思慮とは「生活の注意」(生への注意)のように見えてくる。こんなことを言うと、深遠なハイデガーおフランス思想と比較するなとハイデゲリアンに叱られるかも知れないが、軽薄なベルクソニアンとしてはそう感じた。

実践的な真実とは、事実的な生があくまでその折々に出会われている世界に事実的な配慮というかたちで関与しながらも、自ら自身と決定的に関わり合おうと心構えするときの、その都度の隠れなき十全な瞬間(的な看取)(Augenblick)にほかならない。思慮は指令的(epitaktish)である。思慮は、存在者を配慮されるべきものという性格において示し、瞬間ごとの特定の規定やその都度の「いかにして」や「何のために」、「どの程度」、「なぜ」をこの看取する眼差しの内に取り込み、かつその中に保持する。また指令的な照明として関わり合いを何々への心構え、何々に向けての突進といった根本的姿勢の内へと導いてゆく。ここで思念されている「向かう先」、すなわちその瞬間ごとに存在するものは、何々のために有意義であるとか配慮されるべきものだ、あるいは今、片づけられるべきものだといった観点で見られている。思慮とは、〈−ギリシア語省略−〉〔その目的のために有用かどうかについて〕〔1142b32sq.〕注視することである。本来的な意味での目配りは、十全な瞬間(的看取)という真実化の様態であるから、行為の「何のゆえに」やその諸原理〔どこから〕を純正な真実化の内に保つ。アルケーは、つねに具体的に瞬間に関わっていてのみアルケーたりうるのであり、見られていること、掌握されていることにおいて、この瞬間(的な看取)において、この瞬間(的な看取)に対して、プロネーシスとして現に存在するのである。(p71-p72)

ハイデガーが引用しているのは、岩波文庫だと次のあたり。

かくして、「知慮がある」といわれるひとびとには、「よく思量した」ということが属するとするならば、「思量の巧者」とは、その真なる把握が「知慮」であるごとき、そうした目的に対する有用なてだてを見出すについての「ただしさ」でなくてはならない。(p237)

アリストテレスの言う「「知慮がある」といわれるひとびと」とは、くどいようだが次のような人々である。

こうしたところに基づいてわれわれは、ペリクレスとかそういったひとたちを知慮あるひととなすのである。彼らは、すなわち、彼ら自身にとっての、またひとびとにとっての、もろもろの善の何たるかを認識する能力のあるひとびとなのだから−−。「家政・経済にたけたひとびと(オイコノミコイ)だとか「国政にたけたひとびと」(ポリティコイ)だとかわれわれの考えるのも、まさしくかくのごときひとびとにほかならない。(p225)

ハイデガーはこの『ニコマコス倫理学』解釈の冒頭で、「特殊な倫理的問題構成はひとまず度外視」すると断っているので問題ないが、アリストテレスの叙述では政治的人間の徳であった思慮が、ハイデガーにかかると意識構造論のように読めてしまうのが気になる。それが「現象学的解釈」だと言われればそれまでだが。