哲学と中国

哲学 (ヒューマニティーズ)

哲学 (ヒューマニティーズ)

権威書店による人文・社会科学の入門書シリーズの第一巻目だが、執筆者がちょっと曲者。一般にこうした入門書はその分野のオーソドックスな研究者、例えば,本書の場合であれば、哲学(つまり西洋哲学)の第一人者が執筆することが多い。ところが本書の著者は、哲学は哲学でも中国哲学の研究者なのである。
この「中国哲学」(「日本哲学」も)というのは本書でも論じられているように問題を含んだ名称なのだが、ともあれ著者はプラトンデカルトやカントの研究といった、いわゆる哲学研究の主流から見れば異端とは言わないまでも、少なくとも傍流に位置する領域の専門家である。実は、だからこそメインストリームの中にいる人からはなかなか見えにくい問題を提起してくれるのでは?という期待があって購入した。
まだ前半しか読んでいないのだが、本書は「哲学はどのように生まれたのか」という章から書き始められている。従来の入門書のたぐいであれば、ソクラテス古代ギリシアの哲人たちの事績をひとくさりするところだが、本書で最初に取り上げられるのはドゥルーズガタリの『哲学とは何か』なのだから、なかなか人を喰った構成だ。ドゥルーズらが言うように、哲学とは「尺度なしで概念を創造すること」であるとすれば、その営みは古代ギリシアに歴史的起源を持つヨーロッパ哲学の伝統に必ずしも限られないのではないか、というのが本書の第一の問題提起である。続いて「中国哲学の始まり」が論じられるが、ここでも最初に登場するのは孔子でも老子でもなく、近代中国で活躍した胡適である。デューイのもとで学んだ胡適は、自国の思想伝統を哲学史として叙述しようと悪戦苦闘する。はたしてその作業にはどういう意味があったのか…。
こうした意表を突く構成で、著者は従来の「哲学」のイメージを揺さぶろうとしているようだ。
目次を見ると、この後、政治や戦争といったテーマも取り上げられるらしい。そこで本書が何を論じるのかは読んでみないことにはわからないが、現実の中国はまた民族紛争が起きているようで嘆かわしい限りだ。あれは『西遊妖猿伝 大唐篇(10) <完> (KCデラックス モーニング)』の舞台となっている地域ではないのか。欧米とは違うかたちでの多民族帝国の長い伝統がある国なのだから、その分厚く多彩な政治経験の中から何かよい智慧が出てきてもよさそうなものなのに、と思うのだが…。ともあれ、流血の惨事が繰り返されないことを祈るばかりである。
同著者による『荘子』も一緒に買ったが、最近忙しいのでいつになったら読み終えられることやら。
『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)