教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会について

この「教育基本法「改正」反対」という見出しを使うのは久しぶりです。
かつて政府が教育基本法を改正しようとした時、私はこのブログでも改正に反対であることを表明しました。
実を言うと、これを書いている2009年現在での私は、教育基本法改正に賛成の立場にあります。2006年12月に同法が改正されて以来、現行法は再改正されるべきだと考えているからです。旧法に戻せではなく、再改正を言うのは、旧法は現行法にくらべれば格段に優れたものではあったけれども、それでもどこにも問題がないかというとそうでもなかった。だから、可能であれば、公教育の理念法として、よりマシな方向に向けて再改正すべきである、というのが、現在の私の考えです。もっともそう考えているのは私一人ではありません。
それはさておき、今回、[教育基本法「改正」反対]のタグを使って書き留めておこうとしているのは、その件についてではありません。
今さら足かけ三年も前のことを蒸し返すのは、ちょっと気になることがあったからです。
以下、長くなります。
教育基本法改正反対運動に関わっている真っ最中、私のブログに、反対運動には中□派が関わっているのだからお前もその党派に加わったらどうかという揶揄気味のコメントが書き込まれたことがあった(伏せ字にしたのは某党派を非難するのがこの記事の目的ではないからで他意はない)。これは私だけではなく、当時、教育基本法改正反対を表明した幾人もの方々のブログに、ほぼ同文のコメントが寄せられたので、憶えている方もおられると思う。
私なりに真面目に答えたつもりだったが、それに対する回答は、とうてい誠意あるものとは見なせなかったので、放っておいた。
この一件自体は今となってはどうでもよい。
さて、くだんのコメントの中に「署名の呼びかけのために「転載・転送大歓迎」などと一歩間違えればチェーンメールまがいの文章を発案者の意図もよく吟味もしないで載せる人ももちろんいると思います」と、無自覚に運動に関わる者の軽率さをあげつらうつもりだろう言葉が含まれていた。
実は、と、もったいをつける必要もないことだが、私はこの運動の主力を担った市民団体「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」(通称・全国連絡会)の発足時(厳密にはそれ以前)からの賛同者で、署名の呼びかけ文の趣旨も事前に承知していた。したがって、かかる言いがかりをつけられる筋合いはないのだが、ブログ上ではそのことを公言していたわけではないので、コメントへの応答では特にふれなかった。
この時は「は?なんで中□派?」と思っただけだったが、最近になってこの運動と中□派を結びつけて、あたかも特定党派と関係があったかのように言い立てようとする動きがあり、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」の項でもそのことが取りざたされていたのを今さらのように知って驚いた。
およその事情は「ゐ」氏がノートで言っていることに尽きるのだが、私の記憶から少し付け加えておく。
ウィキペディアには、全国連絡会は「「呼びかけ人」の「呼びかけ」に賛同する全国の市民団体や労働組合・法曹団体などの構成員によって展開された」とあり、それはおおよそ事実だが、初期の活動については不十分である。
全国連絡会(の前身)は、2003年に教育問題に関心のある市民・学生による小さな学習会が発端になって立ち上げられた。労働団体や市民団体といった団体を単位にして作られたものではなかった。参加した諸個人のつてや、また、「呼びかけ人」を引き受けていただいた四人の大学教授が各地で頻繁にミニ講演会を行うなどして、賛同者の輪を広げていった(この先生方の活躍ぶりは今さら詳しく述べるまでもないことだろう)。
だから、全国連絡会のホームページ(http://www.kyokiren.net/)に言う「「教育基本法改悪反対」で一致した人でできた、超党派のゆるやかなネットワーク」という説明はまったくその通りであり、この方針は原則としては最初から最後まで一貫していた。
もちろん「超党派」という言葉は「無党派」を含むが完全にイコールではなく、初期の賛同者にも、この人は日教組寄りかな、とか、あの人は全教寄りかな、という印象のある人もいたが、それもあくまで薄い色分けにすぎず、全体としては無党派の市民・学生が活動の中心だった。
小中高の教員や大学の教育研究者の姿があまり目立たなかったのも初期の特徴である。現場の先生方の中には、教育基本法などという雲の上の法律のことよりも教材研究もろくに出来ないような多忙さをどうにかしてほしいという人も多くいたし、大学の研究者の中には、そもそも法で教育を縛ることに反対だから興味はない、という人もいた。
事務局を担ったのは、元登校拒否児だったというフリーターを筆頭に、従来の労働運動や教育運動とは縁の薄い若者たちだった(通称・あんころチーム)。もちろん、テーマは教育基本法である。教員や弁護士ら、この問題についての専門家と言える人たちも多く参加していたが、教育団体や弁護士会が組織ごと連携してきたのはもっと後のことで、「労働組合・法曹団体などの構成員」は全体の印象としては目立たなかった。
現場を知らない人にはピンとこないかもしれないが、政党や団体に所属せずに個人の資格で集会やデモなどに参加し、時には手弁当で運動を手伝うという人は結構いるものなのだ。お菓子を持ち寄って会議を開き、手わけして作業する。そういう地道な活動が積み重ねられた。かくいう私も仕事の合間に、ささやかながらできる範囲のお手伝いはした。
こうした面々が、主催した側もあっと驚く大成功をおさめた2003年の12・23全国集会を準備したのである(この集会については『緊急報告 教育基本法「改正」に抗して―全国各地からの声 (岩波ブックレット)』がある)。広い日比谷公会堂がスカスカでは寂しいと、私もあちこちに声をかけてまわったものだったが、フタを開けてみると会場は満席、中に入れない人たちのために、発言を終えた呼びかけ人たちが順に外に出て即席のスピーチをするほどだった。
教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」は、この後、2004年に正式に発足した。
「市民団体や労働組合・法曹団体など」がハッキリと目立ち始めたのは、2005年の12・3全国集会からだったように思う。当時の写真を見ても労組の登り旗がズラリとひるがえっている。また、民主・社民・共産などの野党議員からのメッセージも寄せられるようになった。それでも、団体参加であろうが個人参加であろうが対等という原則は、タテマエの上ではあっても維持されていた。集会には個人参加の市民の席が用意されていたし、発言順などでも団体代表が(団体であることを理由に)優先されるということはなかった。
2006年になると、集会、デモ、各地での講演会などが頻繁に催されるようになり、それにつれて「市民団体や労働組合・法曹団体など」との連携も強まった。市民の手弁当で始まった全国連絡会も外から見ると、参加あるいは連携する諸団体の連合体のように見えるようになっただろう。また、与党による改悪法案提出以降は、危機感をつのらせた諸団体間で運動方針について主導権争いが起こるようになったとも聞く。しかし、そのことで運動が変質したと今さら苦情を言い立てるつもりはないし、当時もそうは思わなかった。あんころチームのメンバーたちは発足の精神を維持しようと精一杯がんばっていたし、逆に私のような個人参加の一市民が手弁当でできる範囲は限られていることも理解していた。改悪法案が国会に出された以上、時間的な猶予はもはや少ない。国会議員たちとの交渉も必要である。そういうことに手慣れた政党や労働組合の力を借りないわけにはいかない。それは当然のことである。
こんなことをわざわざ書き留めるのは、実はこの件に関して、当時あんころチームのメンバーの一人から「(最近会議に顔を出さなくなったのは)運動が変質したからだと感じてのことですか」と心配気に尋ねられたことがあったからだ。私は「これだけ大きな規模になったからには、ある程度組織的に運営しなければ収拾がつかないでしょう。みなさんの舵取りを信頼していますから気にしないでがんばってください」と応えた。今でもその気持ちは変わらない。
そして、彼女・彼たちは実によくがんばったと思う。実際、運動終盤に行われたヒューマン・チェーンやサウンド・デモなどは、連携する団体の一部から「無理だ」「余力がない」などと異論も出たらしいが、できることは何でもやってみようという発足当時からの精神(というと大げさならノリ)を発揮して実現にこぎ着けたし、やってみれば成功だった。
私の印象では、全国連絡会は最後まで「「教育基本法改悪反対」で一致した人でできた、超党派のゆるやかなネットワーク」であり続けたし、発足当時の運営スタイルも、運動の終盤に至っても一応は維持されていたと考える。例えば、参議院議員会館の会議室で開かれた院内集会も、賛同者であれば個人でも参加できた。もちろん私を含めて議員会館に入るのは初めてという人も多く、受付で入場には議員の紹介が必要と言われて戸惑ったりしたこともあったが、それもあんころチームに「迷ってる人多いよ」と告げると、すぐに個人参加受付を設けて個人参加者の入場の便宜を図るなどの対応をしていた。おかげで議員会館内の喫煙所でid:annntonio氏と密談をするというスリリングな経験も出来た。
ただし、終盤の時期にいろいろな政治党派がこの運動に接触してきていて、運動をになってきた人々のなかからも、そうした政治党派の一部と積極的に連携しようという動きが出たらしい。こうしたことは運動の全体から見ればごく一部のこととはいえ、穿った目で見たがる人たちの目には特定の党派と関係があるように見えたのかもしれない。それに尾ヒレがついて『ウィキペディアWikipedia)』「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」の項での誤解につながったのではないかと推測する。
教育基本法改正反対運動は、わずか4年の短い期間で行われた運動であるので、運営を担った人々が経験値を積み上げる余裕も充分ではなかっただろうから、客観的に見ればいろいろと未熟な点はあったろう。また、この運動に関わった人々が皆聖人君子だったなどというつもりはない。それぞれなりの思惑も計算もあった人もいただろうし、なかには運動することが自己目的化したマキャベリストや運動至上主義者もいた(http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090910/1252568222)。そうした諸個人・諸団体間で相互の軋轢もあったろう。だが、少なくとも、あんころチームのメンバーは、運動の目的をはき違えるようなことはしなかった。心ない言動や一部の人の脱線に胸を痛めたこともあったと思うが、それでも彼女・彼らは最後まで方針を曲げなかった。これは尊敬に値することだ。

追記

教育基本法は、結局、約三年前の06年に改正され、私たちの改悪反対運動は敗北した。政府・与党はおろか、当時の野党第一党であった民主党の教育政策にすら影響を与えることはできなかった。口惜しいが負けは負けである。
しかし、あんころチームは実に潔かった。教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会は2007年1月に解散した。
せっかくできたネットワークだからこれを足がかりに新たな運動をしようと主張する人たちもいたようだが、あんころチームは、この運動は教育基本法改悪阻止の一点のみで連帯することを原則としてきたのだから、その役割を終えた以上、解散すべきだとして、けじめをつけた。解散に際しては諸経費をきっちり精算した。赤穂城明け渡しもかくやと思うほどの見事な引き際だと、舌を巻いたものである。
この負けッぷりのよさも、教育基本法改悪反対運動の残した意義だと思う。そうでなければ、運動というものも単なる動員の道具になってしまうではないか。

 教育の自由と平等を獲得し、憲法改悪に反対する真の闘いはこれからです。教育基本法改悪反対の一点で集まった「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」はここで解散しますが、これは運動の「終わり」ではなく「新たなスタート」です。この運動を通して全国各地でつくられてきた連帯の輪をさらに広げていくことによって、改悪教育基本法の実体化と憲法改悪を阻止する闘いをつくって行きましょう。私たちもそれぞれの立場から「これからの闘い」へ向けて「新たなスタート」をきります。

http://kyokiren.seesaa.net/article/36283952.html
これがあんころの最後のメッセージだった。この清々しさは運動至上主義とは無縁のものであると私は信じたい。


以上、物忘れの激しい呆け中年のおぼろげな記憶ですし、当然、記憶違いや、偏屈な私の視点によるバイアスもかかっているとは思います。ただ、思いもよらぬ誤解がまかり通っているのに驚いて、教育基本法改正反対運動に関わった自分の経験から思い出せることを書き留めてみました。
この一件に限らず、教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会に関わった方で、もしこの記事を読んで、いや自分の経験ではこうだったという方がおられれば、ご教示いただけると幸いです。

さらに追記

annntonioさんから応答いただきました。
http://d.hatena.ne.jp/annntonio/20090921/1253517461