政治音痴の戯言

サヨクの人とかから糾弾されるのが怖いので政局ネタにはふれないようにしているのだが、なんとなく感じていた不安をkechackさんが上手く言葉にしていらしったので、思わずブックマークしてしまった。
http://d.hatena.ne.jp/kechack/20100412/p1

中田前市長は青年将校的な性格で、新自由主義的な思想を持っているが、国家主義でとは違う。この程度の立ち居地なら民主党にもゴロゴロいる程度だ。しかし、山田宏杉並区長は国家主義的な右派で、自分の思想信条に基いた政策を実行しなければ気がすまないタイプだ。

政局にはほとんど関心がないので、どの議員がどういう政策理念をとなえているかなどは詳しく知らない。けれども、新自由主義国家主義がセットになったとき、非常に危ういことになるのは経験上知っている。
自由主義といい、国家主義といい、私はその政策の全てを全否定しているわけでもない。社会保障制度を充実させるという条件のもとでなら、個々の市民による、経済活動を含む活動に国家が口をはさみ、指導するのは好ましいことではない、と考える点で、私はかなりの程度に自由主義的であり、近代国民国家の達成である言論の自由法の下の平等などの基本的人権、そして代議制民主主義という制度を維持したいと考える点でかなり保守主義的である。
しかし、kechackさんの挙げている自由主義とか国家主義というのは、私のイメージしているものとはかなり違う。それは、kechackさんが間違っているということではなく、むしろkechackさんの方が正しいのであって、私の自由主義とか国家主義のイメージがかなり古いものなんだろうということくらいはわかっている。
いや、もうこの時点でかなり言葉の混乱が起きている。
自由主義新自由主義国家主義保守主義、がグチャグチャしている。そして、kechackさんは使っていない言葉だが、新保守主義というのもあった。
結局、新自由主義と対になるのは新保守主義、あるいは新国家主義とでも呼んだ方がよいものなのだろう。
この両者の相性がいいのはどうしたわけだかいまだにわからないのだが、ともかくこれらはセットで出てくる。
新自由主義とか新保守主義というのは、すでに定着してしまった言葉なのでどうしようもないが、自由主義保守主義であれば、まずありえないほど全体主義に親和的である点が特徴だ。このことをkechackさんは次のように表現する。

 それで有権者が満足してくれる改革を実行してくれれば、多少カルト的で気持悪い右翼的な政策を実行しても、多少は黙認しましょうというのが無党派層の特徴だ。つまり、経済改革を実行し失業率を改善したヒトラーを評価し、多少やり過ぎだと思ってもユダヤ人問題は黙認しようという、ナチスを消極的に支持していた穏健なドイツ人の心理に似ている。

この叙述が示しているのは、全体主義全体主義たらしめるのは、新自由主義とか新保守主義といった政策理念を掲げる側だけでなく、私のような穏健な無党派層付和雷同によるということだ。
この点、よくよく気をつけておかなければならない。
ところで、新自由主義新保守主義の相性がいいのは、新自由主義というものがその名前通りのリベラリズムではなく、優生主義に近いものだからなのではないかという気がしている。新自由主義を名前通りに、政治思想・経済思想の自由主義のニューバージョンとすると全体主義化する理由がわからなくなるが、優生主義の一種だとすれば社会有機体説を採るのだろうから、筋の通らないことではなくなる。新自由主義的政策に賛同する自称国家主義者に露悪的なまでの差別的言動や排外主義がまま見られるのも、原因はそんなところにあるのではないかなどと思う。
以上、政治音痴の戯言だから、真に受けないでほしいのだけれど。

追記

なんだか怖そうな方々からたくさん★やブックマークをいただいて、震え上がっております。
さて、上記記事、別にかまととぶって書いたわけではなく、冷たい雨のなか外回りの仕事から帰ってきて、クタクタな状態で、ふと思いついたことを書き殴ったものですから、たいへん混乱しております。
なによりも、新自由主義とは、もしそれをまとまった理屈のあるものとしてとらえるのであれば、ハイエクフリードマンといった経済学者の主張にさかのぼらせなければならないことを無視しております。いかに疲れていたとはいえ、こういう大事なことを思い起こせないというのはいかにも無教養をさらけ出したようでなんともお恥ずかしい限りです。
ただし、ハイエクの名前を出すと、私の疑問はなお深まることになります。ここで本来ならばハイエクの主張を著作に沿ってトレースすべきなのでしょうが、物理的にそれができない状況にあるのでご勘弁願って、うろ覚えで書き散らしますと、ハイエクの政治思想は、元来はナチズムやスターリニズムのような全体主義に対抗することを念頭に置いて組み立てられた主張であったはずです。自由を強調することで、倫理問題などについては自生的秩序に委ねられる、確かそんな発想でした。
この発想の枠組みは、多くの自称保守主義者も共有するところです。ところが、この自由を擁護し、徹底しようという発想から生まれた政策が、いざ実行されるや、客観的には全体主義的な社会を作り出してしまう。ここのところが今ひとつ上手く呑み込めないところなんです。そんなことを考えています。
いつか、時間に余裕ができたら、苦手な社会科学系の本も少し読んで考えてみたいと思います。