早くも今年の10冊の1冊目が確定(私基準)。
西谷修氏のブログで紹介されていたのを読んで好奇心が湧いた。
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2013/01/post_177.html
手に取ってみたら、これが大当たり。
経済ジェノサイド: フリードマンと世界経済の半世紀 (平凡社新書)
- 作者: 中山智香子
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2013/01/15
- メディア: 新書
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経済や社会の苦境はすべて肥大化した政府に帰せられ、自由な市場は国家のつくり出した「無駄」を切り落として初めて成立されるとされた。「無駄」とされたもののなかには、国家の血流ともいえる租税システムや、働けない人への社会保障システムなども含まれており、人びとは自力でこれをまかなうよう、求められることになった。切り落としは痛みをともなうものであったが、持続的自由を保障するための代償であるとされた。「自由」は何か人が耐え忍ばなければならないものと化したのである。
新自由主義経済政策の社会への影響については以前から気になっていて時折関連書を読んだりしていたが、これほど腑に落ちる本はなかった。
本書のテーマはもちろん経済だが、著者の中山智香子氏が社会思想史的なアプローチで書いているため、私にも読みやすかった。
一つの章を読み終わるたびに感心して誉めちぎっていたら「あたしも読む」と妻に本を取り上げられてしまったので、ここで詳しい紹介はできない。未読の方は上に挙げた西谷氏のブログをご覧いただきたい。
そんなわけでわずかな抜き書きだけを頼りに、またしてもうろ覚えで放言するのだが、本書を読んで新自由主義とナショナリズムの関係について、少し考えをあらためなければならないと感じた。
新自由主義は「国家主導型を破壊してなかば強制的に『自由な市場』を課すという手法」(中山)を取るため、強権的な政府を必要とする。この要請は、たるんだ社会にショック療法をという新自由主義者の主張から必然的に導かれる。政府は自己正当化する存在だから、新自由主義的政策を採用した場合は自ずと国家主義的傾向をつよめる。これも理の当然である(ただしこの場合の国家とは国民国家ではないけれども)。
ところが新自由主義者は規制緩和、自由化などのタームを多用し、福祉国家=大きな政府=社会主義=全体主義という冷戦時代に西側で成立した連想のレトリックを用いるため、新自由主義的政治が小さな政府による全体主義だということが気づかれにくい。それどころか、そのレトリックは既得権益の打破という開放的なイメージをふりまくため、本来は新自由主義によって生活を破壊される側の階層までもが、自分たちも富の所有者階層の仲間入りができるような(少なくともそのチャンスが与えられるような)錯覚を覚えて政府の強権化を歓迎する。しかし、実際には既得権益は、既得権益を打破すると叫んでいる側に握られていて一般市民にはわからないように隠されているのだから、陰謀論がはびこる。
ここまでは中山氏や他の論者も指摘していることなので定説といってよいだろう。小泉政権時代についてはピタリと当てはまる。
ここからは私の妄想である。
新自由主義的政策を採用した政府が強権化・国家主義化するのは採用した政策との整合性をはかる上で必然である。
それでは、新自由主義的統治のもとで民衆の側のナショナリズムが広まるのはなぜか。
もちろん、民主主義国家の体裁を取り繕うために、政府は有権者から政策への同意を取り付けなければならないので教育や宣伝にこれつとめるだろう。でも、それだけか。あくまで印象論だが、どうもそういう気がしない。
この違和感を一言でいえば、新自由主義は愛国心と両立しないのである。特に日本の場合、愛国心教育で持ち出される家族主義的な国家像と新自由主義とでは水と油のはずだ。
新自由主義とナショナリズムについては、これまで、政府の宣伝に踊らされているのだというものから、グローバル化に対する自己防衛的反応だというものなど諸説あって、どれも専門家の方々がデータや理論を根拠に提唱されたものだからそれなりに納得できるものだったが、同時にそれだけでは足りないという思いもあった。もっとも私の考えはデータも理論もない、ただの印象論である。
このモヤモヤした感じが、『経済ジェノサイド』を読んで、スッキリ日本晴れとまでは言えないものの雲の切れ間くらいは見えてきたような気がした。
そのきっかけになったのは、新自由主義は貨幣の運動についてとらえそこねたという指摘であった。これを読んだとき、ちょっと拍子抜けした。なーんだ、フリードマンたちは経済学者のくせにそんなこともわからなかったのか、と(本書によれば英国エリザベス女王も同じような感想を持ったらしい)。
その時、ハッと気がついた(というと大げさだが)のは、私は新自由主義を首尾一貫した体系的理論としてとらえ、新自由主義を採用した政府の政策のすべてにもその論理が貫徹していると思い込んでいたが、案外そうでもないのではないか。貨幣の動きを見逃していたと知って、それは経済学としてちょっとどうかと思ったのだが、人間のやることなんてどこかに穴があるものだ。現に南米諸国ではその政策を実施した揚句失敗している。イギリスのサッチャー改革も評価が分かれていると聞く。
新自由主義はソ連型社会主義に対するアンチテーゼとして登場したから、社会思想としては、社会主義を仮想的として理論武装している。社会主義圏崩壊後は用済みになったはずの論争のレトリックが、その後も一人歩きしているとしたらどうだろう。保守派の政治家が政策としては実はリスクの高い新自由主義に魅入られるのはそのためなのではないか。では、その時代錯誤が旧来の保守層の枠を越えてこうも広範囲に受け入れられてしまうのはなぜか。それに原因があるとすれば、それは新自由主義理論の内側に探しても見つからないのではないか。
そう考えた理由はもう一つある。やはり『経済ジェノサイド』のなかで、フリードマンがチリ軍事政権下での人権抑圧に対して無関心を決め込んだという指摘を読んだことだった。
新自由主義が政治的自由主義(リベラリズム)の延長に生まれたものだとしたら、人権弾圧は黙視できないはずである。ところがフリードマンはそれに見向きもしなかった。むしろ、その黙殺ぶりは新自由主義政策に反対する者は投獄してもかまわんと言うくらいのものだろう。つまり、新自由主義は独裁政治を否定するものではない。看板に偽り有りである。それどころか、強権的な独裁者の統治の手段として使い勝手のよい道具なのではないか。これもまた新自由主義の特徴を示すものだ。それは使い手を選ばない道具であって、使い手が国家主義者だろうが民主主義者だろうがかまわないのだ。政治的反対者の弾圧を容認するくらいなら思想統制だって黙認するだろう。統治自体を目的とするような強権的な政府があればそれでよいのである。だから、新自由主義が全体主義批判から生まれたというのは、開祖ハイエクの動機としてはそうだったかもしれないが、現実の政策はそうではない。
要するに、新自由主義が政府に求めるのは強権支配だけであって、それ以外の政治は新自由主義の理論の内側から必然的に生まれたものではない。ある意味で政治は新自由主義の外側の領域なのだ。したがって、日本社会の右傾化は新自由主義政策の影響だけでなく別の要因も考えあわせないといけない。日本特殊論にはまるのも間違いだろうが、同時に日本固有の歴史的条件も考えあわせないと、政策の新自由主義化だけからでは現状の説明すらできないだろうと感じた次第である。