Web評論誌『コーラ』13号

ここ数年、泥沼の係争関係にあった黒猫房主さまと歴史的和解が成立し、Web評論誌『コーラ』最新号に拙い文章を載せていただきました。
かねてより温めていたテーマなのですが、惜しむらくは原稿を仕上げようとした時期が震災と重なり、未曽有の災害にうろたえてまとまりがつかなくなってしまったこと。
幸い、挽回の機会も与えてくださるということなので、次回に雪辱をはたしたいと思います。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20110415/p1

          • 以下<転載歓迎>ですので、ご紹介くださいませ。-----------------

 ■■■Web評論誌『コーラ』13号のご案内■■■

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  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
 
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  ●新連載〈心霊現象の解釈学〉第1回●
  心霊現象への非哲学的考察

  広坂朋信  
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-1.html
 (前略)カントが取り上げた「視霊者」、スウェーデンボリは、自然科学を学び、スウェーデン王国鉱山局の幹部として勤めるかたわら、自然科学について、また、自然(宇宙)についての思弁哲学的論文などを発表していたが、神秘体験を経て神学研究に転向、カントが読んだ『天界の秘義』をはじめ、多くの神秘主義的著作を刊行した。それらの中で彼は、肉体から離脱してもなお人格と(霊感によってのみ感知される)実体を持った霊と、そうした霊たちが住まう霊界の実在を説き、霊界の有様や霊界と現実世界の関係について述べている。(以下、Webに続く)

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  ●書評●
  走り書きの松下昇論
  ――高本茂『松下昇とキェルケゴール』(弓立社)を読み終えて    
       
  高橋秀明
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/syohyou-13.html
  高本茂が『松下昇とキェルケゴール』を弓立社から上梓した。昨年の夏過ぎ、二○一○年九月のことである。
  高本は必ずしも毎年ではないが、夏に避暑を兼ねて私の住む北海道の地を訪れる。訪れた折には、たいてい会って食事をしたり、私の方で札樽近辺を案内したりする。折々メールのやりとりもするし、電話で話をしたりもする。ただ、松下昇のことについて近年真剣に議論をした記憶はない。私の方で避けていた向きがあったからかもしれないし、高本の方で私相手では話がうまく噛み合わないことを察知していたからかもしれない。
 (以下、Webに続く)

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  ●特別寄稿●
  砂男、眠り男――カリガリ博士の真実

  平野智子・鈴木薫
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou-13.html
(前落)『カリガリ博士』について論じる過程で、私たちは必然的に、これまでなぜ、この有名なフィルムについて、まともな批評がなされてこなかったのかを考察することになった。そして、その結果として、既存の批評の主に次の二つの立場に、異議を唱え、反対することになった(なお、この二つの立場からの批評は、『カリガリ博士』論に限らず、今なお広く行なわれているものであることを言いそえておこう)。一つは、芸術作品を論じる際に、「性的なもの」と「知的なもの」を結びつけることができない――前者を、矮小化、局所化するために――立場であり、もう一つは(一つめと関連するが)、あらかじめ作り上げた物語=歴史に、植民地化したジャンル(ここでは映画)の作品を取り込んで利用する――作品を単純に時代を反映するものと見なして、もっともらしい文化史を捏造する――立場である。
 (以下、Webに続く)

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  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第17章 夢の推論──ラカン三体とパース十体(急ノ壱)
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-17.html
 (前落)「常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在している」。これを読んで私が連想したのは、かの貫之歌「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき」でした。硝子のように冷たい青空をただ一つさびしく漂う「凧」と、波の底なる空(蒼穹の影を宿した水面)をわびしく漕ぎわたる「われ」との関係(たとえば、物質や生命の世界から隔絶された純粋な言語空間(そこには、過去も現在も未来もない)を風に吹かれながら、もしくは頼りなく漂うものとしてこれらをとらえるなら、「凧」と「われ」は同じ事柄を指し示す異なる形象となるし、「凧」を物質・生命の世界の先端に結晶する精神の比喩とてしてとらえ、「われ」を純粋な言語空間に属する言語的な「われ」であるととらえるなら、両者はそのあり様をまったく異にする)、そしてまた、貫之の「千代経たる松にはあれど古の声の寒さはかはらざりけり」の歌に詠まれた「いにしへの声」と、芭蕉の句にいう「水の音」をくわえた四つの詩句(詩想)の関係は、視覚と聴覚、かたちとリズム、実在と不在、空間と時間、等々がいりまじった複雑な様相を呈します。(以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●
翻訳/人工光線の植物工場

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-3.html
  2009〜10年発売の村上春樹1Q84』。「北京の書店から」(朝日新聞「GLOBE」2010・8・16)によれば、中国では5月下旬「BOOK1」、6月末「BOOK2」が刊行され、7月にはベストセラーの上位を占める人気。いまや世界中で村上春樹本の人気はうなぎのぼり。版権取得と翻訳者選びにも論議を巻き起こしている。中国は村上春樹本の翻訳=林少華が定番だったが、今回の翻訳は公募となり、シー・シャオウェイに決定。中国テイストが濃厚で美文調の林少華訳、一方、言葉が洗練されて読みやすくリズミカルなシー・シャオウェイ訳。両者による同一作品の翻訳はないから比較はできないが、翻訳は時代の文体を伝える「使命」が課されているのかもしれない。(以下、Webに続く)

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●コラム「コーヒーブレイク」その6●
  2010年に観た映画──現代日本「ばかもの」の系譜

  橋本康介
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-6.html
  昔、『無用者の系譜』(64年、唐木順三)という本を読んだ。西行在原業平・一遍・兼好・良寛・秋成・芭蕉などを論じて、「何故、日本の優れた思想や文学が、世捨て人=無用者によって作られ語り継がれて来たか?」を説いていた。それになぞらえて当つぶやきの標題を『現代日本「ばかもの」の系譜』としてしまふほどに、今「ばかもの」が愛おしい。

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  ●映画アンケート結果公表2010
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/filma10.html

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