中村雄二郎『西田哲学の脱構築』の西田批判

操作を間違えて日記ごと消してしまったので、あらためて掲載。

西田哲学の脱構築

西田哲学の脱構築

私が学生だった八十年代当時、西田幾多郎再評価の中心だったのは中村雄二郎氏である。1983年に岩波書店の新シリーズ「20世紀思想家文庫」の一冊として『西田幾多郎』を世に問うた中村は、その後も岩波雑誌「思想』や「世界」で西田論を書き継ぎ、1987年には『西田哲学の脱構築』(岩波書店)を出している。
中村の西田論は「ポストモダン」の立場から西田哲学を肯定的に評価したものと評された(そのため激烈な批判も招いた)が、この『西田哲学の脱構築』では、西田の限界についても指摘している。
以下、抜き書きの順番は必ずしも中村の叙述通りではないが、その西田批判の概略をメモしておく。

まず、西田哲学の大きな特徴として、通常区別され対立的に捉えられているものを融合させ、合一させることがあります。(中略)絶対矛盾的自己同一が一即多、多即一など相対立するさまざまなものを即非の論理で結びつけるのも、そのことを示しています。

と、「西田哲学の大きな特徴」をざっくり示している。

西田は、論文「絶対矛盾的自己同一」に先立つ「歴史的世界に於ての個物の立場」(一九三八年)において、≪我々の具体的実在界といふものは、いつも多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと動き行く世界である、即ち歴史的世界である≫として、<一即多、多即一>の<矛盾的自己同一>の考えをうち出しているが、その考え方は論文「絶対矛盾的自己同一」において主題化して取り上げられ、展開されることになる。とくに重要なのは、それが歴史形成の原理であるとともに、個と絶対の関係をうち立てる働きをするとされていることである。

「個と絶対の関係をうち立てる働き」については、西田がキルケゴールなども意識していたことを示している。

彼は論文「国家理由の問題」(一九四一年)のなかでヘーゲルの国家についての捉え方を評価しつつ批判して、ヘーゲルの立場からでは自分のいう<国家即道徳>と言うことはできず、国家は<個物否定の全体的立場>を脱することはできない、と主張している。すなわち彼によれば、ヘーゲル弁証法では一般者が先に考えられその分化発展として個物を引き出そうとするから、真の個物(人格的自己)を得ることができない。それをうるためには、一般者そのものが一であるとともに多であるもの、つまり一即多、多即一の場所的一般者(絶対無)でなければならない、というわけである。

この「一即多、多即一の場所的一般者(絶対無)」がなぜかヘンな方向に。

すなわち、西田は一九四〇年代に入って早々、一方では「国家理由の問題」を書いてヘーゲルの国家観を<個物否定の全体主義的立場>に囚われたものとして斥け、自己の一即多、多即一の立場をうち出すとともに、他方では『日本文化の問題』を書いて、現実の日本の国家や歴史を矛盾的自己同一の論理によって意味づけようとしました。

そこで、「<絶対矛盾的自己同一>の論理がもたらす絶対無の顕現を皇室のうちに見た」のだが、「そこには大きな問題がある」と中村は言う。「自民族中心主義の表明に堕してしまった」と手厳しい。
またヘーゲルと西田哲学の対比を主とする「終章 西田幾多郎の宗教論と歴史論」においては、西田がヘーゲルマルクスキルケゴールらの弁証法と対決し、その乗り越えをはかったことを描写しながら、西田自らの「場所的弁証法ヘーゲルマルクスの過程的弁証法を含むものだとしている」ことについて「そのような西田の言い分には無理があり、十分に根拠づけられていない」と斬り捨てた上で、「西田の場所的弁証法のいちばん大きな問題は、そこにヘーゲルマルクス流の弁証法の核心的部分ともいうべき<疎外的客体化>や<物象化>の論理が、骨抜きにされて含みこまれていることである」と指摘している。中村が「含みこまれている」より「骨抜きにされて」にアクセントを置いているのは一目瞭然だろう。
きわめつけは次の論断だろう。

西田が歴史の重要な契機として自覚に注目したことは、それ自体としてはきわめて正しい。しかし、歴史性と物質的なものとの関係でいえば、歴史的世界においてわれわれ人間の精神や意思は、客体化され、制度化され、物質化されてはじめて、現実的な力をつよく持つのである。したがって、西田のいうところとは反対に、事実は、表現的世界でもある歴史的世界においては、われわれ人間の精神や意思は、否応なしに制度化され、物質化されるので、<第二の自然>にもなるのであろう。その限り、人間のつくり出す歴史は、法則的あるいは論理的に理解し把握することもできるのである。

つまり、現実社会の力学についての洞察が西田には欠けていると中村は言っているわけだ。これは西田批判のスタイルとしてさほど珍しいものではない。三木清も大筋このようにとらえていただろうと思うし、パスカルから出発して文化論や制度論を展開した中村氏の仕事はある意味で三木哲学の継承だったとも言える。
ともあれ、中村氏も釘を刺すべきところではちゃんと言っていたことは記憶しておきたいと思って書きだしておいた。